
古いレース雑誌を開く愉悦…~ヴィンテージ・マガジンにdeepに浸る~
「そうだったのかぁ!」満載、“おもひでレーシング”にようこそ!
“アメリカン・スタイル”は、なぜ日本で流行らなかったか?
----そして、ヒロ松下が採り上げられてますね。
林「日本人初のインディカー・ドライバーですね。同じように“日本人初の”という形容が付く中嶋悟ほどには目立たなかったですけど、ホンダが後押しするようなカタチではないしね。もともと(松下)幸之助のお孫さんだから。いわゆる“ジェントルマン・ドライバー”の典型で、86年にアメリカでレースを始めて、89年に北米フォーミュラ・アトランティック西部チャンピオンになる。F2とF3の中間、日本で言えばFP(フォーミュラ・パシフィック)に匹敵します……と説明すると、かえって分かりづらいですか? その時のマシンはスウィフト・トヨタでした」
----ウム、どんなシリーズであれ、チャンピオンというのは立派です。
林「いいサポート態勢でレースして、下部フォーミュラなのに、スペアカーまであったそうだけど(笑)。そして、それを踏まえて、インディカーにステップアップした」
----フムフム。
林「ヒロ松下は、インディカーがおもしろくなりかけたときに、ひとり、日本人がいたということで、後々の展開にもつながった。まあ、そもそもはビジネスマンであり、いわゆるハングリーなプロ・レーサーではないのかもしれないけど。インディカー界はF1界より様々な意味で寛容ですからね。同じようなタイプの選手がほかにもいたし」
----すぐれたレーシング・ビジネスマン?
林「そうですね。スウィフトという、アメリカ生まれのコンストラクターがありますが、これの経営がダメになったときに、ヒロがこれを買うんです。巡り巡って、いまのフォーミュラ・ニッポンのマシンは、そのスウィフトが作ってるわけですから。あ、今年から名称が変わるんだった。『フォーミュラ・ニッポン』ではなくなって、えーと何だっけ?」
----『スーパーフォーミュラ』では?
林「その種の話を、もうひとつすれば、英国ローラ・シャシーのアメリカ総輸入元で、カール・ハースって人がいた、今も80数歳でご健在ですが。71年に風戸裕がCan-Amにローラで出た時のチーム・オーナーです。そのハースさんがあるとき、経営者交代したローラに先がないと見て、ローラを切って、スウィフトとくっついた。そういった時に、ビジネスとして、海千山千のハースとやり合える、そういう立場にヒロ松下はいる。スウィフト製インディカーがCART戦で優勝した時、表彰台上で勝ったマイケル・アンドレッティと並んでヒロさんが嬉しそうにしてましたね」
----おお!
林「インディカーを始めとして、アメリカにもいろんな“物語”があるわけですよね。むしろF1より多いくらい。アンドレッティとアンサーは、一族同士がライバルという関係だし。でも、子どもたち孫たち同士は、小さいときにはパドックで一緒に遊んでた幼友達だったりとかね」
----うーん、よく思うんですけどね。日本あるいは日本のレースって、何で“アメリカン・スタイル”を受け入れなかったんだろうって?
林「それは、メディア全体(の不勉強)というか。あと、オーバルが、日本人の肌に合わないのかもね?」
----でもさ、日本人って野球と相撲は好きでしょ。これってどっちも“静”から“動”へ切り替わる、そしてまた“静”へというタイプのスポーツで、選手がタイムを取ってゲームを止めたりもできる。相撲にしても、何度も仕切り直ししたり。……で、オーバルのレースって、イエロー・コーションの間は仕切り直しタイムだから、コーラ買いにも行けるよね(笑)。
林「トイレにも行ける(笑)」
----一方でサッカーでもいいけど、ヨーロッパ風スポーツの方は、まあ、走りっぱなし、動きっぱなしというのが多い。ゲームは簡単には止まらないし“待った”もナシで、オウン・ゴールでも得点になったりする。でも相撲なら、いまのは“待った”だったよ……と言うと、それが通ったりする(笑)。
林「もしかすると、アメリカのレースの方が、日本人好みかもしれないのにね」
----そうでしょ。好みのスポーツってことでは、日米は似てると思う。ただ、アメリカン・フットボールって日本じゃやっぱり流行らなかったし、アメリカは、実は世界的なサッカー大国だったりもする。女子サッカーは掛け値なしに世界最強だし。だから、単純には図式化もできないんだけど。……それで、モータースポーツに戻りますが?(笑)
林「えーっと、60年代末までは、日本人にとって、ヨーロッパもアメリカもなかったと思います。F1、ル・マン、インディ500、みんな同じくらいの“距離”で、報道にしても、そういうものだった。でも70年代に、レース界は、全部ヨーロッパに向いちゃった」
----でも、グラチャンて“カンナム”(Can-Am)でしょ。70年代でもまだ、向いてるのはアメリカだったのでは?
林「うーん、カンナムは、アメリカン・レースの中では最もヨーロッパ化が早かった例でね。……というか、アメリカ人の発想だけでは決して生まれなかったものなんですよ。最初から欧米の混血でしょうね」
----あ!
林「賞金皆無のアマチュア・レースを戦後仕切ってたSCCAという統轄団体が、50年代末に、賞金額いっぱいのプロ・レースも主催し始めるわけですけど、その時の看板カテゴリーが排気量無制限のレーシングスポーツカーで、これが66年開始のCan-Amの前身となるわけですね」
----そうだったのか……。
レースとは何かということの、あまりにも“60年代・日本”的な解釈が?
林「まぁ、73年のオイルショック、あそこで、アメリカ全体が一種の“悪”になったということはあるかもしれない。排気量無制限とか、燃料使い放題というのは、『無駄づかいでしょ』と言われたら、反論できないもんなぁ。それとアメリカのレーシングカーって、ローテクすぎて『技術』がおもしろくないというので……」
----そうか、レースは技術競争なのであるという解釈をしちゃったのかもしれないな、60~70年代の日本人は?
林「そう、技術を中心に見たがる傾向は強いと思う。それで言うと、アメリカのレースは、基本ローテクで行こうぜ! で徹底してる。V8の前は、インディだって70年代末まで4気筒のオッフィー・エンジンでイケてたし(笑)」
----そういえば、メーカー間の競争というのは?
林「それは実は、50年代半ばに、NASCARストックカーを中心にしてだけど、メーカー間で取り決めがあった。GMとフォードが結託して、メーカーとして出るのはやめよう、と。それが60年代半ば、フォードGTあたりから崩れ始めた」
----そうか……。でも、日本はやっぱり“メーカー”からレースが始まってますよね。うちのバイクは通用するのかとマン島へ行き、日本国内ではペタンコなポルシェ904に驚いて、それに勝とうと頑張り、TとNではどっちが速いのかと競って……。
林「そこに、運転手が絡んで、どんなマシンを手に入れられるか。どこのマシンが、どれだけ優秀かという争いになった。メーカー対決がエスカレートすると、自分たちの速さを誇示するだけでなくて、敵をどう潰すかという発想も湧いてくるしね。チーム・オーダーだらけだしさ。選手たちも、レースはそういうものだと思い込んでしまうのかもね。それが日本だね」
----外向きには、ウチの会社は、いったいどのくらい“世界水準”なのだろうか。こういうオリンピックみたいな(笑)競争の精神も、その根底にあったから。
林「オリンピックねぇ……。戦前戦後にアメリカで組織された、インディカー、ストックカーは、プロのドライバーたちによるレースです。要するに賞金稼ぎ、コースはオーバル、メーカー色は基本的にナシ。腕一本のプロ集団。勝った負けたでご飯が食えるか食えないかという、生活懸かってるかんね! というレース。第二次世界大戦中は日本に爆弾落としてましたっていうインディカー選手が実際にいたからね。戦争終わっちゃったし、しょうがないからレースでもやるかっていうヤツの肝っ玉は据わってるでしょう」
----フーム!
林「一方、ヨーロッパのモータースポーツは、貴族発祥のもの。そういう意味では、まったく違う。一見、同じようにエンジン付きの自動車でレースをしてても、欧米のバックグラウンドは異なるから、単純に比較しようとするのは間違いですね」
----そうですねえ。
林「第二次大戦のおかげというか、そういうヨーロッパ的なスピリットやスポーツカーそのものが、戦後になって、兵士たちによってアメリカ本土に持ち込まれた。アメリカにはそれまで『スポーツカー』がなかった。それがまず、東海岸ワトキンズ・グレンで始まり、西海岸ラグナ・セカやリヴァーサイド辺りに伝播して人気が爆発した」
----ははあ!
林「さっき話に出たSCCAとか、そういうアマチュアのレースね。一方、アメリカで“プロ・レーサー”とは、もともとダート・オーバルとかを命がけで走り、各地を転戦する人たちで……。インディカーはわりと北東部、ストックカーは完全に南部といった具合で、ひとくちにアメリカと言っても、それぞれレースの趣向は地域ごとにけっこう違うんですよ」
----そういう異なる欧米二種の背景はあまり考えずに、60年代に、日本は歴史の“途中から”かかわったんだな。
林「そのときに、いきなり、アメリカ的な職業運転手というのは、なじめなかったかもしれない。インディカーの前身となる、アメリカの1920年代のレースなんて、すごいですからね。“ボードトラック”って言うんだけど、板切れで超バンク・コース作って、そこを細っこいレーシングカーが、インディより速いスピードでぐるぐる走り回る。そういうショーだった」
----おお、ほとんどサーカス?
林「そうね。……で、悪役がいて善玉がいて、そういう役割分担にも甘んじて、それを観客におもしろく見せるというレースをしていた。でも、ひとたび事故が起こると、ケガでは済まなかったり……」
----プロレスですな!
林「まさにね(笑)」
----そうか、エンターテインメントなんだ、そもそも、はじめっから。でも、自動車レースはエンタメであるなんて、60年代日本の“メーカー人”たちは、一瞬たりとも思わなかっただろうなあ!
林「50年経っても、気づいてない人は多いんじゃないのかな。もちろん、アメリカのエンタメ、ヨーロッパの貴族趣味、日本の不定見、どれが正しいか間違ってるかという話ではなくて、古今東西さまざまな考え方の上に“レース”が存在してきた」
----ウーン、今日はちょっと“視界”が広くなったような気分です、ハイ(笑)。
アメリカCART、その1991年は国際化・元年!
----1991年の『オートスポーツ』は、ここからアメリカ関連のレース記事になりますが……。あれ、これ、場所がアメリカではないのでは?
林「オーストラリアですね、ゴールドコースト。CARTは、おもしろかった時期でね。積極的に外誌をよく見てました。もっと言うと、CARTのファンクラブというのがあってね、ボクはその会員でした。なんなら、会員証、見せましょうか(笑)。91年だと、マイケル・アンドレッティ、アル・アンサーJr.の年かな」
----開幕戦は豪州だったんですね。
林「インディカーのプライドの無さというか(笑)。どこでも走りますぜ、どこでもレースしますぜ、というノリは、ボクは嫌いじゃないですね。F1みたいに偉ぶったところがない」
----おお!(笑)
林「え、こんな路面でレーシングカーが走っちゃうの?……とかね(笑)」
----“初めて北米を離れた”と記事にありますよ。
林「CARTとしてはね、そういう年だった。CART以前ならば、イタリアのモンツァやイギリスに行ってるし、日本の富士にも来たことがあります。CARTっていまはなくなっちゃったけど、もともと、20世紀初頭からインディカーのレースがアメリカにあって。まぁ、その頃はインディカーとは呼ばなかったんだけど……。それが80年代にCARTが国際化してくるにつれて、FISAがケチを付けはじめる(笑)。F1人気の足を引っ張るのではという危惧なんでしょうね」
----“ケチ”とは?
林「たかが国内格式のローカル・レースが何を言ってるんだ、世界に出てはダメだ、と言い出す。日本も含めてね、外に行っちゃいかん、と」
----へえ~!
林「この時代、CARTは、ヨーロッパの既存エスタブリッシュメントからすると、けっこう“危険分子”だった。……まあ、それだけ、CARTの方に、前途洋々たるものがあったわけだけど。選手層にしてもF1よりも広くて、また、世代もいろいろで」
インディカーとCARTとは、それぞれ何なのか?
----あのぅ、さっきから“インディカー”と“CART”という用語が、割りとゴチャゴチャと使われているような(笑)。一度、ちょっと交通整理をした方がよくないですか?
林「ああ、そうですね。そもそも、アメリカのレースというのは、ダート・オーバルを走ったりとか、基本的には、オーバルが多かった。ストックカーもインディ500もそうですよね」
----ええ。
林「まずは、日本で言えばJAFに相当するAAAという団体が大昔からレースも統轄していた。でも1955年に、ル・マンやら何やら世界中のレースで重大事故が多発したら、AAAはインディカーの統轄権を放棄しちゃった。責任負いたくありませんって。しょうがなく、新たにUSAC(ユーザック=US Auto Club)という組織ができて、ずっとそれが統轄をしていた。ただ、そのやり方があまりにも古臭いというのと、内紛というか、航空事故で幹部が大勢亡くなったというのもあるんだけど。そういった状況の中から、79年シーズンを前に、ヨーロッパナイズされた人たちと言っていいのか、国際センスを持った参加チームが一斉に立ち上がって“CART”という団体を作るわけです。Championship Auto Racing Teamsの頭文字で“CART”ですね」
----“シーエーアールティー”と。
林「実は『インディカー』という呼び方は、ヨーロッパや日本も含めて外部の人間が後々言い始めた語句でね、『インディ500で走ってるようなクルマだからインディカー』だって。アメリカの当事者たちは『チャンピオンシップ・カー』あるいは短縮して『チャンプカー』と呼んでいた。アメリカ大陸にだってたくさんの選手権シリーズがあったんだけど、『チャンピオンシップ・カー』と言えば、いわゆるインディカーのことを指してたわけです」
----なるほど。
林「それほど大きな存在。CARTの“C”は、その『チャンピオンシップ』を意味してるわけですね。団体名の中にある『オートレーシング』というのは、別にギャンブル・レースのことではなくて、日欧で言うモータースポーツの意味です。アメリカ人たちはもともと、自動車競走をスポーツだとは思っていません。あとでまた詳しく説明しますが……」
……ウム。
林「最後の『チームズ』はその名前のとおり、参加チームの集合体ということですね。F1で言うところのFOCAのような存在であるCARTが誕生し、USACから造反独立して、79年から自分たちでレース運営をするようになったということです」
----そういうのをリードしたパーソンも、もちろんいたんでしょうね。
林「このCARTの核となったのは、ロジャー・ペンスキー、ダン・ガーニー、カール・ホーガン、パット・パトリックといった人たちで、その時代の切れ者チームオーナーたちです。それが集まって、オーバル一辺倒だったものを、ロードコースもあるよ、ヨーロッパのシャシーメーカーも人材もウエルカムOKよ、というレースを始めた。USAC統轄の既存シリーズは、その後一年ショボく続いただけで消滅しちゃいました」
----CARTは“ヨーロッパ”というか、国際基準を取り入れて引き継いだ、と?
林「そうしたら、ヨーロッパのレース・シーンからはみ出たようなドライバーが、そこ(CART)で走るようになった。まだ、ヨーロッパの若手が日本に来るようになる前のことですね。それで、欧米の交流が数十年ぶりに再開して、盛り上がり始めた」
----そういう経緯なんですね。
林「ナイジェル・マンセルが92年にF1でチャンピオンを取って、でも、ウィリアムズの嫌がらせでシートがなくなって、アメリカに行く。それで、彼が活躍したから、さらに……という循環もあった。これは93年で、少し後のことになるけど」
----でも、それはこの頃から?
林「ええ、91年には、その下地はすでにでき始めていた」
----それがCARTで。……で“インディカー”は?(笑)
林「あ、だから……(笑)。CARTがそうやって新シリーズをスタートさせて、その冠スポンサーやらサブタイトルもいろいろあったんだけど、そのうちに“インディカー・ワールドシリーズ”で定着しました、と。アメリカ人は“ワールド・シリーズ”みたいな大袈裟なタイトルが好きだからね、たとえ国内レベルのものでも。これが、80年代アタマかな」
----統轄主催団体がCARTで、レースの名前が“インディカー”?
林「そう、彼らは、そう名乗った。……そうやってたら、もともとUSACと密接なインディアナポリス・スピードウェイのオーナーであるトニー・ジョージさんが『勝手にオレたちの名前を使いやがって』と。それで、オレたちで新しいシリーズを始めるぞと、CARTに対立する“IRL”を立ち上げた。96年にね」
----ははあ、それが“インディ……”?
林「“インディ・レーシング・リーグ”。ドライバーは、CARTの西欧化で居場所を失いかけていたアメリカ人選手が中心で、コースはオーバルばっかり。聞いたこともない無名選手たちがいっぱいなんだけど、彼らはもともとインディカー(いや、チャンピオンシップ・カーか)の下のカテゴリーである、USAC統轄のスプリントカーやミジェットカー出身の選手たちでね、本来、このステップアップこそが伝統的だったんですね。無名としか思えなかった、われわれ日本のメディアの方が無知であったというだけの話で。こういう一見“邪道”そうなレースがボクは大好きなので、最初から注目してたけど、日本ではまったく話題にならなかった(笑)」
----それで、のちにCARTが?
林「IRLのトニー・ジョージがCARTに対して、『シリーズ名にインディカーという語句を使うな』と文句言ったら、一悶着あってCARTは『チャンプカー』に改めるのね。その後、紆余曲折あって、CART派シリーズは07年を最後に廃れ、IRLが取って代わるカタチで、現在に至ってます。ただし、IRLという名称は消えて、今は『冠スポンサー名+インディカー・シリーズ』です。近年、トニー・ジョージが要職から更迭されたというオチもありまして」
----話を少し戻しますが、さっきのインディ500とCARTとの関係は?
林「最初は、コース側というかジョージさんも、大舞台のインディ500に33台集まらないとサマにならないから“しょうがない、出ていいよ”と。でも、CARTシリーズ戦としてカウントしちゃダメよとか、いろいろあった。何だかんだで、95年までは、CARTメンバーもインディ500に出てた。ジャック・ビルヌーブが勝ったときは、シリーズ戦に入ってましたね」
----そうやってたら?
林「最初はCARTのクルマも出してやるけど、インディ500には地元のドライバーが、スペシャル・エンジン、ビュイックの排気量のデカいヤツとか、そういうので出てもいいよ、と。それでポール取ったりね。そういうお楽しみがあった。でも、IRLが始まった96年に、完全にケンカ別れして、CARTドライバーはインディ500には出入り禁止となりました」
----おお~!
林「IRL側は、“500マイル”に出たかったら、IRL規定のクルマで出なさいよ、こちらで提示する条件を呑みなさいよ、と(笑)。でも、CART側も意地張って、96年には、インディ500の当日に、ミシガンで“US500”というのをやったりした」
----CARTの方が“強そう”だったけどな?
林「しばらくはね。ホンダ、トヨタも出てる、《ツインリンクもてぎ》も完成したとか。でも、そのうちにCARTは内部分裂や上層部の交代が始まって、ペンスキーがIRLに鞍替えしたのをキッカケに、ダダダダーと、みんな一気に……(笑)。そのうちに、ホンダ、トヨタも、もう降りるよ、という動きになって。やっぱり最後は“看板”になるインディ500を持ってるがわの方が強かったよね」
----なるほどね。
林「このとき(91年)は、まだIRLもないし、欧米折衷的なスタイルのレースとともに、初めて豪州に行きました、と。ここでは、ジョン・アンドレッティが勝った。これはジム・ホール率いるシャパラルのチームです」
----ということは、アンドレッティ一族ですね。
林「このジョンは、一族の中で、マリオの双子の兄弟でアルドというのがいるんだけど、その息子です。腕はいいんだけど、本流の“マリオ系”ではない。でも、マイケルと同じくらい巧いんじゃないかというドライバー。いまでも、スポットでインディとかNASCARストックカーに出てきてる。この頃は、マイケル・アンドレッティ、アル・アンサーJr.、ボビー・レイハルなんかが主流の時代ですね」
母国グランプリで初勝利、絶叫するアイルトン・セナ!
----これは1991年の号ですね。表紙は、雰囲気がちょっと歴代の『オートスポーツ』っぽくないような気もしますが?
林「まあ、編集サイドも、いろいろとトライしてるんでしょう(笑)」
----というか、この変化には、86年に新創刊された、あるレース誌の影響があるのでは?
林「ウーン(笑)」
----私が言っちゃいますが(笑)その『レーシングオン』誌の影響は強く受けてますよね。
林「まあ、写真のセレクトとかね……。マネ方が稚拙ではあるけれど」
----それまで、カメラマンが撮っていても編集部が選択しなかったような写真も『オートスポーツ』が採用するようになったという感じがします。……というようなことを、90年代初頭を彩ったメディア上の出来事として、静かに顧みる(笑)のも、いいんじゃないでしょうか。
林「この号はね……。まあ、セナっていう人がいまして(笑)」
----巻頭特集? ブラジルでの開幕戦、彼の勝利ってことで、こんな騒ぎになってるわけですか?
林「ブラジルでね、なかなか勝てなかったんですよ。20何勝もしているドライバーが、なぜか母国グランプリで結果が出せず。……というので、話題にはなってましたね、当時は」
……で、勝って叫んだ、と?
林「絶叫がね、テレビ放送に飛び込んできた。ピットとドライバーが交信するのって、それまで(外部には)流れてなかった。だから、ああ、こういう交信をするんだ……という驚きが、まずあったな」
----何て言ってたんですか?
林「※!!?□×☆?って、ポルトガル語かな? わかんない、意味不明(笑)。ただただ、絶叫でね。……いまは、ドライバーとの交信は筒抜けでしょ。当時は、そうじゃなかったから。セナが感動してるんだということは、わかったけど」
----そのグランプリから、無線を公開するのが解禁になったとか?
林「そうじゃなかったと思う。そんな事前報道はなかったし。何で、あんな声、流したんだろ? ブラジルの放送局が独断でやったんじゃないのかな。セナが吠えてる感動してるのを、世界中の人に聞かせたいって。それから、ほかにも伝説があって、ミッションが壊れて、最後は6速しかなかったのにとか」
----それでも勝った?
林「ハナシがうますぎるよね(笑)。ヘアピンなんか、どうやって回ったんだという気がします。ま、天才だからね、セナさんは。凡人には理解できません」
----と、セナ氏に対してクールな二人なので(笑)、別の質問を。これ、91年ですよね。この年のF1というのは?
林「開幕から4連勝だったかするんですよ、でもセナはその間ずっと、ウィリアムズに追いつかれるって言い続けて。何とかしてちょんまげって言いながら、でも勝ってるわけ。実際、シーズン後半になるとマンセルが追い上げてくる」
----セナはマクラーレンですね。
林「ええ、マクラーレン・ホンダ時代。セナも結果的にはチャンピオンを取るんだけど、マンセルのウィリアムズ・ルノーが急激に、その性能を上げてきた年でしたね」
----フェラーリは?
林「フェラーリがプロスト/アレジ。まあ、彼らにとっては、チョメチョメな年だったでしょう(笑)。……で、中嶋悟選手がこの年で引退。日本中が『がんばれ、ありがとう』ってお題目を唱えながら、宗教がかってたよね。そのくせ『勝て! 』とは言わないんだ。それは無理だとちゃんと理解してる。F1ブーム極まれりって感じでした」
----そういえば、鈴鹿では?
林「チャンプが決まったセナが、最後の最後で、ベルガーにあからさまに勝ちを譲って、美談と言うか茶番というか(笑)。あと、夏に、ベネトンにミハエル・シューマッハーが加わった。そういう意味では、F1が“動き始める”年……」
----この号には……って、この頃の『オートスポーツ』はということでしょうけど、ネルソン・ピケが書いているコラムが載ってるんですね。
林「ピケだけじゃないですよ、ほら、ベルガー、ハッキネンのコラムもある。なかなかゼイタクですね。まあ、F1ブームだったしね。ボクはこんなゴーストライターが書いたものなんて読まなかったけど。外人ライターさんと編集部の、原稿執筆依頼交渉が目に見えるようです。たくさんお金払ったんだろうね、この出版社は」
----そうか、そして熊本でも?
林「オートポリス、開業! そこで全日本F3000選手権も行なわれましたって、ここで記事になってる。すごいですね、みんなTカーを持ってたから」
----ドライバーも、外国人多いですね。
林「ドライバーは、ヨーロッパでは、フォーミュラに乗ろうと思うと、おカネ持ってらっしゃい……になる。でも、日本へ来れば、お金もらってレースを走れる。というわけで、来ました! エディー・アーバイン、ロス・チーバー、ジョニー・ハーバート、マウロ・マルティーニ、ジェフ・クロスノフ、さらには、ヤン・ラマースと」
----はあ、呼べたということは、つまりおカネが?
林「余ってたんでしょうねぇ(遠い目)。クルマがキレイでしょ。カネがあるというのは、こういうことですよね。……で、勝ったのが、翌年、ブラバムのシート合わせまで行くことになる、われらが中谷明彦だった。このメンバーに伍してだから、けっこうすごいよね」
----その後のニュース・ページがこれですけど、レイアウトや見出しの付け方とか、斬り方が『ポパイ』風かな?
林「そういう影響も受けてるでしょう。……というか、当時の雑誌トレンドからすると、もう古い感じもするけど」
誰も予測しなかった勝利!? マツダ、ル・マンを制す!
----それで、これはル・マン24時間レースの展望ページで?
「マツダの“ル・マンカー”が載ってます、小さくね(笑)。レナウンの“チャージ・カラー”に塗られる前でしょ、この写真は」
----あれ、1991年といえば?
林「マツダがこの時点で“勝ちそう”という気配でもあれば、雑誌として、もっと大きく載せてますよね。まさか、勝つとは思わなかったんだ……というのが、これで、よくわかります(笑)」
----チャージ・カラーじゃないというのが、それを示してますね。これは貴重だ!(笑)
林「添えられたキャプションが“どこまで闘うのだろうか?”ですから(笑)。マツダの遠大な、20年間のプロジェクト。みんなが油断するのを待ってた、というのはジョークだけどね」
----でも、後にも先にも、ル・マンで勝った日本車って、マツダだけだから!
林「ロータリーは、ターボと違ってこれ一車種しかないから、ハンデを付ける基準もコレ(マツダ)しかない。Cカーのレギュレーションとの絡みで、ロータリー・エンジン車が走れるのは、この年が最後だった。そして、それまでは総合10位とかクラス優勝とか、ずっと、そのくらいのところで闘っていた。最後の年なので、主催者の“温情”もあったと思うけどね」
----重量とかタンク容量とかのレギュレーションですね。
林「それから、これを走らせる日本人ドライバーのタイムからも、まあ“このくらいのクルマ”なんだろうと思っていたら……」
----本番では、ドライバーが外国人F1ドライバーに替わっていて?(笑)
林「勝っちゃった(笑)。でも、立派ですよ。ル・マンで必要なのは、速さだけじゃないし。20年間の挑戦の集大成としても、見事なものでした」
----そうですね。でも、繰り返しになるけど、レース前時点での、この扱いの小ささが泣ける。……というか、メディアって、むずかしいものだなと。
林「そうですね」
WECから刺激を受け、日本メーカーが変貌した
林「この年、このレースで、これ一戦だけを見ればね。ポルシェとランチアが一騎討ちをしました、すごかったですね……で済んじゃうんだけど」
----うん?
林「ちょっと時間をおいてみれば、まず、このレースで刺激された日本のメーカーが動き始めました、というのがあって」
----ええ。
林「それから、プライベートのお金持ちチーム、スポンサーのあるチームも、それなら耐久レースをやろうということになって……。それでもって、アプローチしてみたら、何とポルシェ956が手に入ってしまいましたというチームがあったり。一台目はトラスト・チームで、二台目は千葉(泰常)さんのタイサン・チーム『アドバン号』になるのかな」
----国内耐久シーンの全体が盛り上がって行きますね。
林「80年代後半、日本の二大メーカーの“Cカー”作りも、この一戦が原点ですよね。ここから、ル・マン24時間を目指すようになって。そのル・マンには、トヨタが85年に初挑戦。ニッサンは86年からル・マンに出るという流れになります」
----『87C』とか、年次+Cというネーミングでしたね、基本的に日本車は。
林「実際には、トヨタは童夢設計・トムス製作のマシンで、日産はシャシーがマーチやローラ製でしたけどね。マツダは予算が小さかったから、83年から“C2”の方に参戦と。さらには、自動車メーカーでなくても、ル・マンに挑戦したいという人たちも出て来る。そうやってル・マンと日本の関係が、すごく密になった時期があって……。これは結局、トヨタの挑戦から6年後の91年に、日本車として初めてル・マンで優勝するのはマツダだったというオチもつくんだけど」
----そういうのも、すべて、このレース『WEC』がなければ?
林「ええ。そういう意味では、すごく大きいレース」
----なるほど。
林「そう位置づけられるんだけど、ただ、このときのレースで、すごいコンペティションがあったのかというと、実は、そうではなくて(笑)」
----え、だって“独仏戦争”で?
林「ランチアとポルシェは、そういう闘いをした。でも、この二チーム以外はダラダラ~というか(笑)。各チーム間のツバゼリ合いみたいなことは、実はまったくなかったのでした」
----まあ、チーム間の“格差”というのはムカシもイマも……。
林「そもそもスポーツカー・レースに、F1みたいな大接戦を望んではいけない。最終ラップにトップがガス欠に陥った時に大騒ぎすればいい。21世紀になって、どのカテゴリーもマシンの信頼性が上がりすぎて、壊れなくなって、レースとしてつまらなくなったよね。だから変なギミックを弄して、ゲーム性を高めようとしている。……あ、また脱線してますかね?(笑)」
----それは“現代F1”のこと?(笑)
林「いやF1に限らず、あらゆるカテゴリーがそう。日本もね。アメリカは大昔から発想が違うから、それでもOKだけど」
----ところで、この富士のあと、ランチアの翌年は?
林「ランチアは、この年は、こうやってチャンピオン争いをして、翌83年からは、レギュレーションどおりのCカーを作るんですね。でも、ポルシェからは一年遅れてるし、さらに、ポルシェの完璧主義に較べると、どうもちょっと雑なのよね(笑)、速いけど」
----ムフフフ(笑)。
林「だから、ランチアは予選ではトップ取っても、レースでは、なかなか勝てなかった。……で、やっぱりポルシェはすごいな、ということにもなったわけです。そして間もなく、ランチアの活動の中心はWRC(世界ラリー選手権)へと移行していく」
----ランチア・デルタ・インテグラーレですね。あれもまた、ちっこいクルマという感じだったけど(笑)。
「いや、インテグラーレの前にね、グループBの“037”と“デルタS4”っていうのがあったでしょ。特に“S4”は完全にイケナイ領域のクルマで、ボクは好きだったけど」
----グループCでは、ポルシェ軍団はランチアと違って、その数も多かったのでは?
林「たしかにね。15台が売られたという話、さっきしましたけど。その後も増殖し続けてね。グループC参加層の増加を促したという点でも評価できます。そうやって、いろんなチームに渡ったポルシェが、順番を決めてるわけじゃないんだろうけど(笑)それぞれ、ちゃんと勝つわけですよ」
----ワークス以外がね。
林「もちろん、ワークスも強い。でも、ワークスは、ボッシュ・モトロニックとかPDKミッションとか、新機軸の開発を重視してたから、必ずしも毎戦優勝にこだわっていたわけではなかった。そして、それがトラブったら、イェストとかクレマーとかブルンとか、そういう有力チームのポルシェが代わって台頭するという展開。結果、表彰台はやっぱりポルシェということに」
----レースで一年使ったら、ワークスカーはその複製を市販する。その発想が興味深いですね。次年度用に作る自社のクルマは、絶対に今年のものより良くなる! そういう自信があるんでしょうか(笑)。
林「ニッサンもトヨタも、自社のCカーを市販しましょうなんて、夢にも思わないから(笑)。ま、勝てないクルマを売っても、誰も買わないか(苦笑)」
----まあね(笑)カネを出す理由が……。カーメーカーと“レースカー・コンストラクター”の違いでしょうか。ある確固とした哲学があるんでしょうね。フェラーリも、そういえば放出するでしょ。
林「フェラーリのスポーツカー・レースでのワークス活動って、実は73年いっぱいで終わってるんです。それ以降の各種GTカーや、ずっと後の333SPなんかは、いずれもプライベート活動なんですね。もちろんワークス公認というか、何らかの援助はされてるだろうけど。そんな大昔にワークス活動は辞めてるのに、いまでもフェラーリと言えばスポーツカーという印象がとっても強い。それはすべて、1940年代末から73年までの25年間の濃密な活動が、人々の脳裏にインプットされてるからでしょうね」
ポルシェCカーにおける“乗用車主義”
----そういえば、956などポルシェのCカーって“レーサーじゃない”という説がありますよね。
林「乗用車911を作ってる人たちが、同じ感覚で、これ(956)も作ってるんで、ほかのレーシングカーよりも、乗用車的な部分がものすごくあるっていう話です。要するに、市販されてるポルシェ・シリーズの、その中での“超・速いポルシェ”に乗ってるという感じで、まったくの別カテに乗ってるわけじゃない、ということ。でも、ニッサンの“Cカー”は、たとえば、スカイラインとは、もはや“家族”ではないよね(笑)、名前がマーチではあっても」
----まあ、コクピットをチョコッと覗いてみただけでも、ニッサンは、高度で精密なキカイだなということは見えても、ホスピタリティはあまり感じないから(笑)。
林「レーシング・ポルシェは、とても乗りやすい安心なクルマなんだそうです。もちろん、好タイムを出そうと思えば、エイヤッて攻めなければならないけど。ドアも、高級車みたいにカチッと閉まるそうで(笑)」
----というわけで、これから先“Cカー”が流行る原点を、このとき、日本人観客は初めて見た。それがこの『WEC』で、それに関する情報がてんこ盛りになってるのが、この号である、と。
林「その意味では、このレース、いろんなクルマが出ましたということで、それを雄弁に語っているワンカットが、2ページ目のこの写真ですね。
----なるほどね、これはこの本(雑誌)を象徴するようなショットかもしれない。この一枚で価値あるよね、ちょっとピンボケだけど。
林「ちなみに、この年から、オートスポーツは縦組み・中綴じになりました。81年までは、横組みの平綴じでしたが」
----あ、印刷・出版用語が出ましたね(笑)。
林「そして、このあと、モデルチェンジをしてない。30年間、チェンジなしで編集が貫かれている(笑)。週刊になったり戻ったり、カラー化が進んだりはあるけど、内容の変化はないですね。時代のニーズにおもねらない姿勢はスゴイ」
雨が降ってきたらドイツ・チームは何をしたか、対してイタリアは?
----この号、後半のレースレポートが、かなり熱心ですよね。
林「公開練習と予選だけで15ページ取ってるから。そして、IMSAカーについてもちゃんと取材してあるし。フェアレディZがアメリカではレースしてるんだ! ということが、実感としてわかった号でもあります」
----編集部の総力を挙げて、『WEC』を記事にしてるという感じ。その点では、おそろしく気合いが入ってたように見えます。
林「そのとおりですね。ボクは当時、ライバル誌オートテクニックの編集を手伝ってたけど、この一戦に関して言えば、オートスポーツの“勝ち”だと思いますね」
----ところで、このレースって、富士お得意の(笑)雨はなかったんですか?
林「あ、予選2回目が雨。……そうそう、雨が降ってきて、ピットが水浸しになったときの対応が、イタリア・チームとドイツ・チームで、全然違うのがおもしろかったな。そばで見てましたけど」
----え、ドイツ・チームは?
林「雨樋から、ちゃんと作り直す(笑)」
----樋? つまり、そもそも水がピット内に来ないようにする?
林「そう」
----イタリア・チームは?
林「イタリア人は平気(笑)」
----ヤァ、雨だなあって(笑)。……。さて、これでだいたい、この号を巻末まで見て来たことになりますが、あと、気になるようなページがあったらピックアップを。
林「ちなみに、ジャン・ロンドーさんと『ロンドー』っていうクルマが……。あ、いいか、これは」
----いえ、どーぞ! ドント・ストップ・プリーズ(笑)
林「グループCが始まる前、スポーツカーの低迷時代でも、ずっと走っていたのがこのロンドーさんでね。ル・マンで生まれた人で、ル・マン(24時間)に自身がデビューしたとき(75年)のクルマが、マツダRX3だという──」
----“3”? サバンナですかね。
林「アマチュア(のレーサー)なんですよ、ロンドーさんは。でも、自分の生まれた町のレース、ル・マンでどうしても勝ちたい、いい成績を収めたい、と。それで、レーシングスポーツカーを作っちゃった! エンジンはコスワースを買ってきてね。イナルテラという壁紙メーカーがスポンサーとして付いたので、76年には“イナルテラGTP”という名でル・マンに出てます。そのボディ・ラインは後のロンドーとクリソツですが」
----ハー!
林「……で、実際に80年にロンドーM379Bが、ル・マン24時間総合優勝を遂げてしまうのです。相棒のジャン-ピエール・ジョッソーおじさんがプロ選手だというのもあったけど、ロンドー自身も運転して遅くはなかった。単なるスポーツカー・レース好きのアマチュアだなんて馬鹿にしちゃあいけない」
----ええ、優勝は、誰にでもできるということじゃないので。
林「この『WEC』、82年富士のときも、ロンドーさんはそれなりの名士として、富士に来てるんです。ドライバーはアンリ・ペスカローロ/ティエリー・ブーツェンで、残り6分という終盤まで3位を走っていながら、ヘアピンで止まっちゃった。でもロンドーさんは、たしかレーシングオン創刊準備作業中の時だから、85年末だか86年正月頃に、交通事故というか踏切事故で亡くなっちゃうんですね。ゆえに、それをもって、『ロンドー』というクルマも消えてっちゃうんだけど……。ただ、この時期(82年)についていえば、この人は、グループCには欠かせないキャラクターでありました」
----そのクルマ、『ロンドー』は?
林「これ(4ページ目の上写真)。ほら、この曲線が何ともフランス車っぽいよね(笑)」
----それにしても、早すぎる死ですね。その『ロンドー』とロンドー氏が揃って、日本の雑誌に掲載されたという意味でも、この号は貴重かもしれない。
林「2006年に出た『日本の名レース100選』の007号も、82年WECジャパンだけで一冊になってます。参加41台の“全見せ”ページもありますので。同じ材料を使っても、調理する人が別だと、全然違う料理になるというのが、レース開催24年後に示されてて、なかなかおもしろいと思います」
----おお、それはぜひ!
林「ル・マンやWECといったスポーツカー・レースには、独特の魅力があります。それに魅せられるのは、自動車メーカーも個人も……。レースといって、F1だけ見てる人は損してますよね」
----というか、近年になって、よく思うんですけどね。レースって、耐久もスプリントも、みな《同じ》だなあ、と。いまのF1に限っては、ムリヤリにピットに一回以上入れてるかもしれないけど(笑)。でも、給油やタイヤ交換も含んで、そもそもメンテナンス抜きでは、レースカーは一メートルだって走れないでしょ。一方で、耐久と呼ばれるジャンルであっても、この『WEC』がらみで何度も話題にしたけど──。
林「そう、耐久だからといって、遅いのはダメ(笑)」
----どっちのジャンルも、つまるところ《総合力》で戦争をしている……。だから、“24時間”も“1.5時間”も、レースは、その意味ではまったく違いがないと思うんですね。
林「そう、自動車競走が化石燃料を使っている間は、カテゴリーの如何にかかわらず、どれも一緒と見るのがいいでしょうね」
“欧/米/日”が期せずして一堂に会する、超・国際的なレースに!
----この『WEC』にやってきた“黒船”の代表は、やっぱりポルシェ?
林「……というか、ランチアかもなあ。えーと、まず、世界選手権を謳ってるけれど、F1みたいに、統一したオーガナイザーがいたわけではなく……。F1であれば、パッケージになってるから、バーニー(・エクレストン)のところに行って、“いくらで(日本に)きてください”で済む。でも、WECの、とくに初年度なんていうのは、FIAはもちろん関与はしてるんだけど、それぞれのレースごとに、個々の主催者と参加者の交渉なんですよ」
----たとえば、VICICだったり?
林「そう、主催者ビクトリー・サークル・クラブ(VICIC)と、その母体である日本モーターレーシングセンターね。当時は《鈴鹿1000㎞》だって、似たようなカタチなんです。ホンダランドと、ドコドコのチームとの話し合いで、“来てよ、日本にも”“いいよ”という、そういうレベルだった」
----なるほどね。
林「この年、『WEC』が始まりました。でも、メディア的にはというか、専門誌としては“始まるぞ!”って煽ったんだけど、実は、世間ではそれほど盛り上がってるわけではなくて」
----ヨーロッパでは、世界選手権が始まっていたのに?
林「始まってはいたけど、ショボく始まっていた(笑) 」
----アメリカは? 関係ない?
林「いい質問! そう、アメリカは重要なんです。アメリカは、すでにIMSA(イムサ)が“ひな形”としてあった。IMSA-GTシリーズというのが、ジワジワと人気上昇中で、その中のGTPクラスというのが、まさにグループCのお手本的な存在で」
----ほう?
林「ヨーロッパではね、『WEC』が始まりましたと言ってたけど、そういうCカーのレギュレーションに合致してるクルマが、いざ集まってみたら、けっこうショボいメンツだったのです。82年の2戦目になって、ようやく、ポルシェの956、ワークスカーが出てきたけどね」
----ぶっちぎって勝った?(笑)
林「……だったかな?(笑) あ、でも、これ(マルティーニ・カラーのランチアを指差す)がいたからなあ。……ああ、やっぱり優勝はランチアで、956は2等賞ですね。このランチアは“Cカー”じゃないんですよ、“グループ6”のクルマで。より正確に言うなら、75年までのグループ5規定に準拠なんだけど」
----ははあ!
林「レースとしては、グループCですと名乗ってるんだけど、全車がグループC規定である必要はなくて……。メインのメイクス選手権は“Cカー”でやりますが、その前の年まで出ていたスポーツカーも、ハンデを付けたりはするけど、併催のドライバー選手権には出ていいよという規則だったわけ。スポーツカー・レースの基本は、異なるクラスの混走だからね」
----そういう混沌(笑) は、そもそもの基本精神ですよね。
林「ランチアは、その規則をうまく“逆読み”をして、以前の規則のクルマでも(まだ)OKなわけだから、それなら、その規則で新車を作っちゃおう。旧規定の車両には燃費義務もないからね。その方が総合優勝の目がある、と」
----あ、新車を作っちゃったの? いま、“イエー!”と言いそうになったけど、旧レギュ仕様をやむなく使ったんじゃなく、新たに作ったというのは……。ウーン、やるなぁイタリア人!(笑)
林「……で、シーズン2戦目で、これ(ポルシェ956)が出てきたら、拮抗してるんですよ。予選や短距離レースでは、こっち(ランチア)が速いんだけど、でも、1000kmとか24時間の長距離を走らせると、こっち(ポルシェ)が速い」
----なるほど。
林「そういう、いい勝負をし始めた──。それで、日本では、秋に『WEC』をやることが早々に決まってたんだけど、そうやって競り合いが始まっちゃったもんだから、日本なんかで走らなくてもいいレギュレーションなのに(笑) 。だって、全戦に出場義務なんてないからね。さっき言ったみたいに、オーガナイザーとチームがコンタクトしてるだけなんだから。そんな遠いとこ(日本)行かないよ、というのもアリだったわけで」
----でも、ポイントの獲得競争になっちゃって?
林「そう。たしか、ランチアの側から言ってきたと聞きましたね。日本に行くよ、レースするよ、と」
----ロスマンズ・ポルシェとマルティーニ・ランチアですね、そのライバル関係は。
林「それと当初、オーガナイザー代表の本田(耕介)さんは、アメリカでデイトナの24時間レースを見てきて、ポルシェ以外は、IMSAを中心に日本に呼ぼうと思ってた。IMSAだったら、何十台分も呼べるような予算もすでにあったという話で。そうやって、IMSAの主要チームのいくつかと話をしているのと同時進行で、こっち(『WEC』のポルシェやランチア)の話も出て来て……。そして、いざ、開催が近づいてきたら、日本のチームももちろん出るしということで。そんな流れで、日・米・欧が一堂に会するという、非常に珍しいレースになった」
----はあ……。
林「そういうレース、ほかにあるかというと、ル・マン24時間くらいしかない」
----おお!
林「だから、ル・マンがそのまま日本にやってきた! というようにも見えるレースになり……」
----一方ではデイトナから来たマシンも、なぜか走るし? そういう、おっそろしくインターナショナルなレースに?
林「結果的に、なっちゃった!(笑) だから“国際的な草レース”ですよ、これ! ……草レースというか、F1とは大違いの、アマチュアも出られますよ、というね。実に正しきスポーツカー・レースでありますなぁ。そういうレースが、この年に、偶然、成立しちゃったのです!」
----おもしろ~い!(笑) 歴史のイタズラとでも言うか。
林「でも、これはいまだからそう言えるけど、82年シーズンの開幕前は、海のものとも山のものともつかぬものだった。だから、日本のメーカーも無視していた。ただ、トヨタだけは、トムス、童夢がらみで、こういうマシン(38ページのトヨタ・セリカC)を出してきた」
速すぎるエンデュランス・カー、恐るべしランチア!
----ところで、そのロスマンズ vs マルティーニは、ここでは?
林「イタリアとドイツでしょ。戦い方も、まったく違うわけですよ。それで、日本車もGCカー改とかRX7とかいっぱい出ているのに、観客はみんな、初めて見るこっち(独対伊)に注目してる。それと、日本のメーカーの人たちは、たぶんこの場に来ていたと思うけど、驚いたわけです、みんな。それまでの、このへんのクルマ(48~49ページ)が走っている耐久レースしか知らない目から見ると……」
----そういう意味の衝撃ですね。
林「ヤツら、本気で、短距離レースみたいなことをやってる。そうやって走って、生き残った方が優勝だ!……と、そういう“耐久レース”をやる。壊さないようにゆっくり走るのが耐久レースだと思ってたのに、それは大間違いなんだと気づいた。目からウロコ、鼻から牛乳ですよ(笑) 」
----おお!
林「それを見て、トヨタ、ニッサン、マツダ──あ、マツダは分かってたかもしれないけど、これは俺たちが、もう一度、本気で、ワークスでやらなきゃいけない、“グループC”をね。そして、“よし、ル・マンに行って勝とう!”と、みんな思ったわけです(笑) 」
----飛びますね、ユメが。いきなり(笑) 。
林「日本のメーカーは70年代初頭に、ル・マン行き・海外挑戦の機会を、公害排ガス対策によって挫折しているからね。レース主催者や国内レース関係者の意向としても、10年以上の冬眠から目覚めさせて、そういう方向へ持っていきたかったんじゃないかな。日本とF1の関係だって、5年以上途切れたままだったし。この頃まで、日本のレース界はずっと鎖国状態だったと言ってもいいので……。その封印が、この一戦で解けた」
----ははあ。
林「実際に、各メーカーがル・マンに出て行くのは3~4年後だから、タイムラグはあるわけですけどね。でも、日本のメーカーが、このときの『WEC』で目を開かされたというのはとても大きい」
----“WECショック”がル・マンへの夢を育むことになった、と。いいですね、話がキレイ!(笑) で、これ(5ページ目)はレース中の写真? つまり、例の4台がバトっている?林「そう、“4台”ですね、やっぱり。五分五分なんですよ、この2チームは。予選でのポールは、アルボレートのランチアかな。ポルシェは、ジャッキー・イクス、ヨッヘン・マス、デレック・ベル、バーン・シュパンという、四人のベテラン・ドライバーで」
----みんな、ル・マンの雄でもありますね。
林「一方のランチアは、リカルド・パトレーゼ、テオ・ファビ、ミケーレ・アルボレート、ピエルカルロ・ギンザーニという、こっちはF1ドライバーばっかりで」
----ウワ!
林「82年というと、アルボレートはまだF1二年目かな。新人に近い存在ね。で、この一週間前に、ラスベガスでF1があって、そこで初優勝してるんですよ。だから、ギンギンノリノリの状態で、富士に来て、そしてポールを取る!」
----フーム、どういうドライバーを乗せるのかという、その一点だけでも“違い”がありますねえ!
林「クルマでも、ランチアは、さっき言った規則の妙で、軽いし小っちゃいし、燃費考えなくていいし。エンジンは、1.4リッター・ターボなんですよ。そしてポルシェは、2.65リッターのターボ」
----フム、ターボはターボなんだ、どっちも。
林「ターボはね、当時、NA(自然吸気)に換算するための係数が『1.4』だった。だから、これ(ランチア)は2リッター相当になる。そうすると、2リッター・エンジンで、この格好のクルマというと、日本のグラチャン・マシンと同じ“土俵”になるんです。それで、1分12秒39で、予選でポール取る。……これって、グラチャン・マシンより速いんだよね!(笑) 」
----ムム! でも、それは運転手のせいでは?
林「運転手もあるんだろうけど。でも、そもそも耐久用に作ったクルマなのに、そういうレベルのものが作れるのか、世界では、と……」
----なるほど、“耐久マシン”がスプリント・レーサーより速いんだもんね!
林「日本の当時のグラチャン・カーというのは、イギリスから持ってきたF2シャシーに、カウルを被せて、“ほら富士スペシャルだ、メチャクチャ速いぜ!”って言ってて、それがようやく1分12秒台だったのに……」
----そうだ、後期のグラチャンって、成り立ちはもうスポーツカーじゃなくて“フォーミュラ”だったわけで。
林「でも、ランチアは、チームとしても初めて日本に来て、ドライバーも初めてで、コースもこのときに初めて走った。そういう“初めてずくめ”で、いきなり富士のコースレコード作っちゃうわけですよ(笑) 」
----なるほどね。それで、54ページから始まる記事が、この富士WECのレースリポートで、見出しが“ポルシェ、富士を制覇”。
林「勝ったのはやっぱりポルシェ。……まあ、後付けのハナシになるけど、よくできてますよね。ランチアは速かったけど、やっぱりポルシェだよって。これが逆だったらね、“ポルシェ伝説”はできなかったというか、ケチがついてた」
日本とポルシェ、その関係をつないだ日本人メカニックがいた!
----伝説は、このレースで、できた?
林「いや、そういう意味ではなくてね。ポルシェが速い強いっていうのは、日本のレース界では60年代からあって、プリンスやニッサンやトヨタの挑戦に対しても、いつもポルシェはその上に君臨していて……。それで、10年以上の空白があって、今回は、相手はすごくすばしっこいランチアだったけれど“やっぱりポルシェ”と──。でも、もしランチアが不在だったら凡戦だったかもね、トムスやマツダじゃ役不足だから。そういう意味ではランチアがいたからこそ、ポルシェ優勝の価値が高まった。だから、ランチアにも拍手パチパチ」
----伝説は揺るがず、と!
林「けっこう、年数が開いてるんですよね。だって、この(WEC)前にポルシェが“来た”っていうのは、それこそ、69年日本グランプリで、ジョー・シフェール、オートスポーツ的にはシファートか、その917まで遡るんじゃないかな。そのときは、R382が勝つんだけど」
----あ、そこまで?
林「あ、71年の富士GCで、風戸裕の908と生沢徹の917がワンツー・フィニッシュしたことがあったっけ。あと、935がクレマー・チームで、81年の《鈴鹿1000㎞》に来て優勝というのもあった。だから、“69年の917以来”というと、若干オーバーになりますけどね。でも、そうやって、時々外国チームが持ってきても、ポルシェってやっぱり、その名を汚すようなことなく、この国で、ちゃんと勝っていくのね。……詳しく知りたい方は、兄弟誌『日本の名レース100選』で、いま言ったそれぞれのレースを採り上げているので、どうぞ」
----ポルシェは勝つんだ、ワークス・チームでなくても。
林「そういう意味では、ワークス・チームとしてのポルシェが自分の意志で来たのは、この『WEC』が初めてだった。だからこの点は、特筆すべきというか、要注目ポイントですね」
----それまでは、もっぱらプライベーターが?
林「放出されたマシンを持ってきて、日本で走っていた。そう考えると、69年の日本グランプリで走ったのは、タキ・レーシングに呼ばれての、まあワークス体制だったから、その意味では、この『WEC』はそれ以来ということになりますかね。でも、69年ポルシェ参戦の一件は、別の裏ストーリーもあるようで……。それは、いずれ別の機会でね」
----ええ、楽しみにしてます。
林「で、これが82年の秋でしょ。『WEC』の初年度が終わろうとしている時ですよ、ポルシェは83年に向けて、この初年度で成功した956を翌年に向けて“量産”し、15台を売りますよ、と」
----おお、そういうアナウンスが?
林「“世界、どの国の人にも売ります、ただし審査はします”という意思表示をするんですね。これは要するに、ちゃんと闘えるところに売りますよっていうことなんだけど、そうなれば、世界中の人が手を挙げるわけです」
----それで、日本にも来たのか。
林「そう。翌年に一台、956が入ってきます」
----それが“100番のポルシェ”かな?
林「100番の日石カラーになるのはずっと後だけど、それと同じトラスト・チームのポルシェね。トラスト代表の早川(正満)さんが『買います』って名乗り出たら、ポルシェは『じゃ、メンテナンスをノバ・エンジニアリングにやらせるなら、いいよ』と」
----フーム?
林「なぜかと言うと、さっき言った、69年の日本グランプリでのポルシェ、これはタキ・レーシングがチームごと呼んだわけですよね。そのときに、日本側のチーフメカニックが“グレート・イノセ”こと猪瀬(良一)さんだった。後に、ノバ・エンジニアリングの代表者となる方ですね」
----ああ、そういうつながり!
林「ポルシェ・ワークスは、そのときに、日本にはこんなに優秀なメカニックがいるんだと深くメモリーした。それと、この“トラスト/ノバ/956”にはもうひとつハナシがあって、日本で走らせるのはいいけど、ヘンなというか、下手くそなドライバーには乗ってほしくない。だから、ポルシェとしては、ひとりドライバーを付けるからということで、彼らが送り込んできたのがシュパン」
----お!
林「まあ、実はテイのいい左遷なんだけどね(笑) 。ポルシェ・ワークスにとっては、シュパンは四人目のドライバーだったので。82年のランチアの戦い方を見て、瞬発力のある若手が必要だと悟ったポルシェは、83年に向けて、F2で目立っていた気鋭のシュテファン・ベロフを抜擢した。それで、余ったシュパンを日本に送り込んできた、と……。でも、たぶん言い方としては、“ウチのワークス・ドライバーを派遣してやるから、使いなさい”風だったと思いますけどね(笑) 」
----光栄なハナシですね(笑) 。
林「でも、83年ル・マン24時間で、3台目のワークス956要員として駆り出されて優勝するシュパンはシュパンで、ちゃんと商才もあって、後々、日本でレーサー兼ビジネスマンとして結構稼いだはずです。そして83年のシュパンは、藤田直広選手と組んで、日本の耐久レースで連戦連勝するんだけど、走ってみたら、直広選手のほうが速かった、と。そういうオチもある(笑) 」
----でも、いま聞いてると、ヨーロッパ人っていうのは、個人と個人の関係を大事にするというかな。つまり、“イノセのいるところになら、売るよ”ってことでしょ。
林「それで言うと、先般、富士に行ったときに、ノバのガレージに立ち寄ったら、猪瀬さんのところに外国人の客が来てるとのことで、誰かなと思ったら、ポルシェの要職の人だった」
----今日にまで続くフレンドシップということですね。フーン、ちょっとイイ話だなあ。
“A”と“B”があったから“C”がある
----ところで、“グループC”とか“Cカー”っていうジャンルですけど?
林「この規定は、82年に始まりました。その前は、さっきちょっと言った“シルエット・フォーミュラ”カーでレースをしていて、キャビンというかルーフラインというか(クルマの)ウェストラインから上だけが市販車の格好をしてるという、そういうクルマで」
----ああ、ありましたねえ! クルマの下半分だけがいきなり巨大化したようなヤツが! (笑)
林「ポルシェが言うには、911の派生モデルだって。でも、どこが?(笑)」
----お! あくまでもアレは“911”なのね(笑)。
林「一時期ね、そういうのが日本では“スーパーカー・ブーム”とも連動して、それで、ちょっと人気も呼ぶんですけど。ただ、参加者にしてみれば、カネがかかるだけじゃん! とか、世界を転戦していくほどのものじゃないじゃん! ということで、ドイツの国内選手権だけ盛り上がったりしていた。……で、その反省から、まったく違う発想で、新しいスポーツカー・レースをやろうと。それも、自動車メーカーをもっともっと巻き込まなければダメだと」
----ははあ。
林「燃費規定だけキチンと義務付けして、あとは、もうプロトタイプですね」
----市販車のオモカゲなんて、そんなもの、なくていいからと?(笑)
林「でも、それではメーカーは食いつきにくいでしょ。だから、エンジン規定を思いっきり緩くした。それと、エンジンを供給するメーカーの名前はシャシー・コンストラクターの名前より先に表記します、だからメーカーさん、みんな出てくださいと──。普通は、順番は逆でしょ。だから、ニッサンが英国製のマーチ・シャシーを使えば、フォーミュラカーなら『マーチ・ニッサン』だけど、グループCでは公式に『ニッサン・マーチ』になるわけ。グループC活動に、大衆車マーチの販売戦略をも考えていたニッサンは実に賢い(笑)」
----ウン! シルビアという名のレーシングカー・コンストラクターも存在してたことだし……って、これはもちろんジョークだけど(笑)。さて、“C”ってことは?
林「まず“A”があって、これはツーリングカー、乗用車ですね。ヨーロッパでもこの“A”の登場によって、ツーリングカー・レースは息を吹き返した」
----量産されていることが条件、5000台以上でしたっけ。あの“グループAレース”ってヤツですね。
林「日本でも、85年から93年まで、全日本ツーリングカー選手権が盛大に催されました」
----32スカイラインの常勝時代。
林「……で、“B”は規則上は一応GTカーなんだけど、実際には、当時の世界ラリー選手権用のモンスターですね」
----えーとランチア・ストラトス……は古過ぎ(笑)、あ、アウディのクアトロ!
林「そう。そして“C”がスポーツ・プロトタイプ。それまでは、数字で1、2、3……というように付けていたのを、ガラッと発想を変えますよと謳って、アルファベットのA、B、Cにした」
エンジンに関する束縛を極限までフリーにした注目レギュレーション!
----そうやって“グループC”が生まれて、そのクルマを俗に“Cカー”とも呼んだ?
林「“グループC”カーは、ウインドスクリーンの大きさとか、最低重量とか、細かな寸法規定はたくさんあるんですけど、一方で、エンジンはまったく自由だった」
----ああ、そうだ!
林「排気量はまったく無制限。ターボ付けていようが、いまいが、構わないし、何気筒でもいいし、普通のレシプロの他、ロータリー・エンジンもOK。ただし、レースで使える燃料が──最初は1000kmレースなら600リッターかな、それが決まってた。数年後にはそれが510リッターになるんですけどね。燃料タンクの大きさとピットストップ回数でチェックするという仕組みで」
----いいですねえ。要するに、燃費だけ規制します、それに適うエンジンは、各社ご自由にどうぞ……と?
林「1000kmで510(リッター)なら、リッターあたりほぼ2kmですよね。それをクリアしないと、完走できない。結果はチェッカー優先だからね、最終ラップまでトップにいても、ガス欠してしまってチェッカーを受けられなかったら、それはリザルトにならないし」
----でも、それさえクリアできれば、カー・メーカー、エンジン・メーカーとして、何をやってもいいという規定だったはず。ほとんど天才的なレギュレーションですね!
林「実際のレースでも、最後にガス欠するとか、スローダウンするとか、そういうシーンもいっぱいあってね。スリル満点! そもそも、どういうエンジンを積むかというところでの、メーカーのスタイルなり個性が楽しかったし」
----ええ、ターボなし、しかし大排気量でとか。一方では、小排気量+ターボもあって、そういうスペック比較も興味深かった。
林「大排気量+ターボなのに、低ブーストというのもあった。後のザウバー・メルセデスだけど、そんな考え方もあるのかと新鮮でしたね。そして、そうやってバリバリのワークス・チームやプロ・レーサーたちの台数が増え始めると、一方では、プライベート・チームや、スポーツカー好きのアマチュア・ジェントルマンも走れるような“C2”というのもできた」
----あ、そういう“クリアランス”もあったんですね。
林「……で、ふだん街中でスポーツカーに乗れる人たちって、元々お金持ちだし、それを乗りこなせるということはそこそこの腕自慢でしょ。そうやって、アマチュア・レースで腕を磨いてきたそんなお金持ちたちが、Cカーに乗り始める。たとえばポルシェ956を買ったり、自分でチームやコンストラクターを立ち上げたりして」
----おお~!
林「もちろん、自分でも、そういうクルマを走らせたいしね。そして、F1に行けずに“余ってる”ような速いプロ・ドライバーを雇って、チームとして組めば、好成績も夢じゃないとか、考えるわけですよ。一方で、F1予備軍やF1落ちこぼれ組にとっては、ワークスCカーには乗れなくても悲観することなくて、そうやって自分の腕と速さでオーナーさんに貢献してお金をもらえる。そういう生活方法があった」
----なるほど、そういうソサエティというか、その種の文化の存在ですね。
林「金持ちのレース好きにとっては、世界中を旅しながらレースするって、タマラん道楽だと思う。だから、老若男女プロアマ、これらが混在してこそのスポーツカー・レースだという考え方は重要ですよね。メーカー・ワークスによる総合優勝争いだけ見ていたのでは、スポーツカー・レースの本質は永遠に理解できないと思います」
1982『WEC』、秋の富士スピードウェイに“異文化”が来襲した!
----それで、そうした“Cカー”で争われるレースで『WEC』と?
林「ワールド・エンデュランス・チャンピオンシップ、世界耐久選手権の頭文字を取って『WEC』。“ウェック”と発音します。この“C”は、Cカーではなくて、チャンピオンシップの“C”ですね。その後、シリーズ名自体は、WSPCとかSWCとか、たびたび変わりますけど、富士で、88年まで毎年秋に開催される大会は《WECジャパン》と呼ばれて定着します」
----その『WEC』が、この1982年から始まった?
林「そうです。厳密に言えば『WEC』というシリーズ自体は81年から行なわれてたけど、“Cカー”レギュレーションによる初年度ということでは、この年からなので」
----当時の日本のスポーツカー・レースは?
林「富士GC(グラチャン)は、中古のF2シャシーにスポーツカー・カウルを架装した単座がすでに主流になってました。この“グラチャン”は、300km前後の距離を1時間半程度走るレースだから、耐久レース向きじゃないし、そもそも単座では、規則的にも『WEC』には出られない」
----ウム?
林「一方、当時の国内耐久レースは、何でもアリの混走というか、82年だと“グループ5”シルエット・フォーミュラ中心でやってました。2座席の旧グラチャン・マシンも、TSカーという改造ツーリングカーもOKで。当時、強かったのはBMWの『M1』ね、シルエット・フォーミュラ。この号でいうと3ページ目のカラーに、ほら! 」
----おお~!
林「あとは、後方集団としては、マツダRX-7のシルエット・フォーミュラが、こんなにいっぱい! 」
----ほんとだ。ただ、美しさという点では、やや……(笑)。
林「ウン、若干、問題あるけどね(笑)」
----でも、たしかに、ここ(キャビン)だけは“セブン”だなあ。あとは、まったく違うけど(笑)。
林「そうやって、いつもは短距離レースで走ってるクルマを、壊さないようにセーブしながら、チンタラ耐久レースしてたところに、この年、ヨーロッパから、ちゃんとした(笑)“Cカー”がやって来た」
----ええ!
林「そういうクルマとチームが、日本で、6時間のレースをしたわけです。事前の予想では、6時間での走破距離は1000kmくらい行くかなと読んでいた。しかし、ヤツらは何と、260周=1133kmを走っちゃいました」
----ありゃあ!
林「『何じゃ、この速さは! 』って……。だから、お客さんはすごく入ったし、喜んだよね。決勝当日の観客数は8万6千人。というわけで一躍、この『WEC』とCカーは、日本で大人気のレースになったのです」
○ドアやヘッドライトのあるクルマでレースする
林「自動車レースには、フォーミュラカー・レース、ツーリングカー・レース、その中間のスポーツカー・レースがあって。……で、スポーツカー・レースのファンというのは、日本ではとくにオジサンたちに多いわけだけど(笑)。でも、それが、近年ある時期、なかったりもした。で、オジサンたちはスーッと去って行っちゃったみたいですね」
----この場合の“オジサン”って?(笑)
林「だから、いまの50代60代。車名でいうと、シャパラル、フォードGT、フェラーリP4、ポルシェ・カレラ6。前回(66年4月号)触れた、そういうのに目覚めた人たちね……」
----あ、“二座席好き”ということ?
林「ウーン、そうも言えるかな。当時に流行ったスロットカーで馴染んだとか、富士の日本GPに熱中したとか、それらがカッコいい! というのが、まあ、ずっとあったわけですよ。それが再び、今回取り上げる“グループC”時代に、改めてピークが来るわけだけど」
----ウム!
林「でも、1992年をもって、レーシング・スポーツカーによる国際レースは、いったん、廃れちゃうのね。今回紹介しているこの号の10年後に……。“グループC”というのはそういう運命のものだったんですね。昨年、2012年になって《WEC》は復活しましたが」
----いまの話、その日本のオジサンたちの“スポーツカー好き”というのは、いったい何でと考えると、簡単に言っちゃうと、第3回日本グランプリのせいでは?
林「それは大きいですね。出来たて富士スピードウェイの30度バンクコースで繰り広げられた、66年から69年までの《日本グランプリ》は、とにかく凄い熱狂ぶりだったからね。日本のほとんどの自動車メーカーが社運を懸けて闘った。今の《スーパーGT》の比じゃない」
----そうだったようですね。レースに勝つことは、その会社のクルマが“いい”からであり、それはつまり、その社の技術力の証明である。ゆえに、レースでの勝利はダイレクトに、市販車の拡販とメーカーのサバイバルにまでつながった。そんな恐るべき時代だった、と。
林「それと、世界的に見ても、当時──つまり60年代は、トップドライバーはみんな、スポーツカーもフォーミュラカーも乗ってたわけですよ。カテゴリーに関係なく、というかな。フォーミュラで速いだけって、別にエラくなかった。ドライバーなら、こっち(二座席系)も乗って、ちゃんと速くないと認めてもらえない。だから、どんなカテゴリーのレースも平等におもしろかった」
----ええ。
林「その流れが日本にも来ていたんだけど、ある時期から、F1が、こう、突き抜けちゃって……。そこから、スポーツカー・レースを下に見るような風潮がね。F1だけを盛り上げようとする政治力が強く働いたし、そういう人が存在したということですね。そして日本も、コロッとそれに洗脳されちゃった」
----なるほど。あと、さっきからここで語られてるのは、うるさく言うと(笑)、スポーツ・プロトタイプカーのことでいいですか?
林「まぁそうですね、結果的に、レース専用のクルマね。その意味では、フォーミュラカーとも近い。ポルシェ917、ニッサンのR38系、トヨタ7とか、みんな公道なんか走れないわけで」
----そうですね。
林「……で、プロトタイプ以上にフォーミュラに近いのが、当時、北米大陸で大人気だったCan-Am(カンナム)シリーズ用の、いわゆるグループ7カーです」
----あ、カンナムは、つまりグループ7であるという解釈でいいんだ。
林「ちょっと補足しておくと、プロトタイプって試作型という意味だから、本来は“GTプロト”とか“スポーツ・プロト”といったカタチで使われる名称ですよね。『いずれは公認台数を量産して、競技規則で言うところのスポーツカーやGTカーにしたいと思ってます。ついては、これはその試作車ですんで、だから、レースに出してくださいな』ってウソ八百を言いながら(笑)、純レーシングカーを作っちゃうわけですよ」
----ハハハ! (笑)
林「いわば、この領域は、怪しいグレーゾーンなんだけど……。ただ、プロトタイプカーが存在しないとスポーツカー・レースが盛り上がらないという事実もまた、歴史が証明していてね。ヨーロッパの主要メーカーはそのへんを互いに探り合いながら、上手にバランスを採っている。だから、世界選手権とかル・マン24時間みたいな大きな舞台が“混んでいる”時に、アメリカとか日本の“空気読めない”メーカーが突如入ってくると、彼らはグレーゾーンの解釈を変えて対応するわけですね」
----あー、フォードとか? でも、日系は“読めなかった”かもしれないけど、強くもなかったから、ダンナ様、どうかお目こぼしを……(笑)。
林「昔も今も未来も、それは変わらないでしょう。あっ、話が脱線してますね(笑)」
----未来はどうですかね? 闘いに出て行った分──勝てなくてもね、その分、かつてはカワイかったわけで。でも、これからは……。でも、こうやってると、話が先に進まないな(笑)。
○“既知との遭遇”とオープンボディ・スポーツプロトの魅力!
----えーと、日本の昔からの“レース・ファン”の歴史を思うと、ずっと、そのプロトタイプ・レースのよき観客でありましたというパターンがあり、70年代の富士グラチャンにしても……って、ここまで言うと話が飛びすぎますかね(笑)。
林「いや、そのとおりでしょう。ファンに限らず、業界内にも、その時代を経験している人、引きずっているフリーランスのライターやカメラマンってやっぱり多くて、その種の人々はずっと、スポーツカー・レース、スポーツ・プロトタイプのレースに興味を持ち続けている。だけど、レース情報の送り手代表である専門誌編集者は、世代がもっと若いからね。いま30~40代の“F1至上主義”から入ってきた人たちは──」
----はぁ、“1987鈴鹿以後”の人たち。そういう人たちにとっては、こういうスポーツ・プロトのレースって何なのよ?……なのかな。
林「そうね。こういうレースが、何でこの時(1982年10月)に、こんなに盛り上がることができたか。それを窺い知るには、それなりの下地とバックグラウンドがあったからなのです。82年当時のファンは、そのときに思ったわけね、富士でのスポーツカー・レースはかつて、メチャクチャおもしろかったぞ! と。でも、最新の世界事情は知らない、じゃ見に行ってみよう、と。既知と未知の融合ってことなんです」
----“既知との遭遇”ね(笑)。
林「仮にこのとき、富士ではなく鈴鹿でやってたら、それほどの盛り上がりにはならなかっただろうな。ま、当時の鈴鹿は、フォーミュラ路線と二輪の“8耐”で邁進してたから、グループCなんて眼中になかったでしょうけど」
----そう思います、鈴鹿には似合わなかったと断言しましょう、ここで(笑)。ただ、さっきの観客や編集者の世代ということでは、日本の“F1元年”(1987鈴鹿)から、もう25年もの時間が経ってるわけで。
林「その25年間、スポーツカー・レースは“山あり谷あり”で、ま、低空飛行が長かったけど(笑)。スポーツカーやGTカーって、フォーミュラカーとツーリングカーの間にあるとさっき言いましたが、そのどっち側に近寄るかっていうことでは、時代によって、けっこう“振れ幅”があるんですよ。決して、ど真ん中にはいない」
----おお、そうなのか。
林「90年代末のGT1や、いまの日本のスーパーGTを見ても分かるように、常にエスカレートする方向に動いている。レースが速さを追求するものである限り、これは変えようがない。“遅さ”を追求するなら、話は別だけどね(笑)。参加メーカーたちが陰で『この規則のまま10年間は続けようね』と囁き合っていても、そんなことお構いなしに誰かが掟破りのマシンを投入したら、そりゃあ5年で潰れますわ」
----暗黙の……という部分ですよね。でも、だからこそ、破りたくなるんだろうし(笑)。
林「グループCが始まる前、70年代半ばから80年代初頭の国際スポーツカー・レース、これは『世界メイクス選手権』という名で、当時のグループ5、通称“シルエット・フォーミュラ”というので競われたんだけど、市販車ベースと言いながら、こっち(フォーミュラ側)に近づいて、エラくカネがかかったりしていた。その反省もあって、“グループC”が生まれるんです。同じ高額を費やすなら、最初からプロト路線の方が見栄えも良いしね。“シルエット”カーは、一歩間違えるとグロテスクになりかねないから」
----ははあ……。
林「“グループC”カーって、いま言ったようにプロトタイプカーなので、街なんか走れるクルマじゃない。市販車とは遊離してる。だから、本来は、あまり親しみを持てるクルマ(カテゴリー)ではないはずなのに、すごく魅力的なものを、やっぱり、潜在的に持ってるのね。そこに、みんな惹かれるんじゃないかな」
----ウン、個人的な意見ですけど、ドアがあってワイパーがあって、ヘッドライトも付いてる、そういう自動車によるレースっていいですよね。フォーミュラは、まあ“クルマ”ではないから。
林「それは、基本的には正しいでしょうね。“Cカー”は屋根も付いてるもんね。乗用車の“must”がとりあえず完備されてる。ただ、個人的に言えば、ボクは“屋根なし”の方が好きだな。オープンのスパイダー・ボディが好き! 」
----“スパイダー”と! いま、ちょっと“萌え”ましたが(笑)。
林「昔から、ル・マンみたいなストレートが長くて高速コースだと、ダウンフォース云々が言われる前の時代でも、空気抵抗を減らそうとして空力優先になるから、どうしてもクローズド・ボディのクーペになっちゃうんですよ」
----“なっちゃう”とは、やや微妙ですが?
林「ニュルブルクリングとか、タルガ・フローリオみたいな、クネクネの山岳コースでは屋根なしのオープンボディで走ってるのに、ル・マンになると、それがクーペになってるということ。だから、70年代初頭までのスポーツカー・レースでは、同じ車名でも、屋根なしと屋根ありが混在してると、そういう時代があった」
----おお、いいですね、そういうの!
林「その時代のスポーツカーが、ボクはまあ、好きなんですけどね。ほら、大昔の1920年代だって、スポーティなクルマには屋根なんて元々なかったでしょ。……いや待てよ、ボディ形状の違いというより、ル・マンでも山岳路でも公道でも、飛んだり跳ねたり滑ったりしながらどこでも平気で走っちゃうから、スポーツカー・レースが好きだったと言った方が正しいかもしれないな……」
----“アブナい度”の高さですね。こんなところを、こんなクルマが……という(笑)。
林「タルガやミッレ・ミリアなんて、一台ずつの時間差スタートだからね、ラリーみたいに。だから、どんな場所でも、どんなに長くても、というスポーツカー・レースの基本精神は今後も忘れないでほしいところです、FIAさん、コレ読んでますか(笑)。F1も、ニュルブル旧コースを走ってたころは、最高におもしろかったんだけどね」
----はあ、“あそこ”をね。往時のタイヤで、あのオールド・コースをF1が走ったというのは、想像するだけでほとんど戦慄というか……。
林「そういう時代を、年季の入ったいまの50代、60代のファンたちは知ってるわけ。第3回の日本グランプリも見てるかもしれないし、トヨタとニッサンの対決も記憶しているだろうし。スポーツカーってカッコいいよな! ……という、そういう人たちは、これ(WEC)が始まったときも、スンナリ食いつけたはずなんですね」
----えー、かなり遠回りしながら(笑)、82年に戻ってきました。
林「でもね、69年日本GPと82年WECとでは、実はたった13年のブランクでしかないわけです。まぁ『13年も』なのか『13年しか』なのか、見方次第では変わるけどね。ひるがえって、2000年と2013年とでは、いったい何が変わったんだろう? 何も変わってないじゃないかと思うと、69年から82年までのモータースポーツ界の変革ぶりって途方もなく大きかったんだなぁと、改めて思い知らされます」
----112ページからは、林さん好みのページが始まるようで?(笑)
林 ウン、ぼくは大好きですよ(笑)。
----タイトルが、でも、すごいですよ。「血にいろどられたレース史」、「グランプリ・エピソード」という連載の中の「その1」ということのようですが?
林 これ、執筆は誰だっけ? えーと、あ、さっきの「名レース……」と同じ嵯峨さんね。
----当時もいたんですね、《林信次》みたいな人?(笑)
林 ハハハ(笑)。これもねえ、ぼくは毎号、楽しく読んでいたんですけど。これは、要するに聞き手がいまして、「こんにちは」って“春夫”さんが言うわけです。
----うん。……で、答えるのが──
林 “オート太郎”さんで、「やあ、こんにちは」と応ずる(笑)。
----対話形式ね。
林 それで、「こういうことってあったんですか?」と聞くと、「いい質問だね」とか言って答える。割りと、私の好きなパターンで(笑)。
----“オート太郎”は“音太郎”をもじった? ……あ、違うな! 「カーレースに詳しい太郎さんをお招きして」となってる。苗字が“オート”なのか(笑)。
林 本文は“春夫”と“太郎”のやり取りですね。
----この回の、主たる話題はというと……。
林 それはまさしく、タイトルの通りで、ここで春夫さんが質問してる。「1946年から1963年までの18年間で、事故で死んだドライバーの数は170人もいるんですってね」……と。
----おおー! そうやってトータルされると、けっこう強烈な数字ですね。
林 この回は、まあタイトル通りだけど、その“死”に関するエピソードばっかりで、ちょっとヘキエキするという部分もある。
----こうして死にました、こういう珍しい状況もありました、という話が多いですね。ただ、ちょっと興味本位みたいな描写もあるような気がして、そのへんビミョーというかギリギリというか……。
林 それがジャーナリズムだといえば、そうなんだろうけどね。
----ラストの部分で、日本ではどうなんでしょう?という話になって、リエージュ・ソフィア・ラリーで亡くなった鈴木義一選手のことが採り上げられてます。
林 この「血にいろどられたレース史」の書き手と、例の小説「光芒の果て」の作者は、同一人物とまでは言わないけれど、きわめて近しい関係にある間柄じゃないかな。
----鈴木義一さんとは親交があったのかもしれないですね。ここにあるように、彼のことを“ギッちゃん”と呼んでいた人たちの中に、この書き手(嵯峨彪)もいたのでは?
林 ああ、そうだと思いますね。
----“死”をメディアで、とくにレース雑誌という場でどう採り上げるかは、いつの世であれ、なかなかむずかしい……と呟きつつ、そろそろページをめくってみましょうか。
林 すると、いきなり喫茶店が出て来ます。
----118ページですね、「どらいばあず・さろん」ということで、ここでは東京・西荻窪にあるイニシャル“P”のお店が紹介されています。
林 これも、レース好き、クルマ好きみたいな人がやってるお店ということで、ずっと連載されていて……。そういえば、ここの欄で「A」という店が紹介されていたことがあって、昨年暮れに中野ブロードウェイに行ったら、いまも、そのお店ありましたねえ!
----このお店「P」では、66年当時ですけどコーヒー100円ですね。ハンバーガー、ホットドッグも100円……。
林 これも“定番”というか、雑誌の“台割り”上こういうのはありましたよね、当時は。……というか、いまのレース雑誌でもやればいいのに、こういうレース好きの食べ物屋さんの紹介を。元レーサーのお店、知ってますよ。
----そのショップ紹介の下は、囲み記事で「パドック」というタイトル。ここは、読者の投稿欄という設定?
林 うん、この号だと、雑誌が新装の“月刊1号”でまだ読者はいないから、こうして、まず読者の「声」を募集してる。そして、この質問は編集部で創った?(笑)
----そうでしょうね。レーシングカーにはナンバーを付けなくていいのでしょうか?という質問を読者がしたことにして(笑)、編集部がそれに答えてる。
林 そして、その次に、もう一度グラビア・ページが来ます。当時の雑誌は、いまみたいに全篇カラーというようなことはないから、カラー口絵から始まって、モノクロの写真ページになって、文字のページに続き……というように、構成に変化とリズムがあってよかったな。
----このラストのモノクロ・グラビアは「富士スピードウェイの練習風景」、サブタイトルに「寒風の中のホットなトレーニング」と。
林 さっきの73ページにあった、グランプリ事前情報の写真版ということですね。
----ちょっとおもしろいなと思うのは、この頃は「テスト」という言葉をあまり使わないらしいこと。事前にサーキットを走るのは“練習”で、そしてそれは“トレーニング”であるんですね。
林 クルマがどうこうというより、そもそもドライバーも含めて、関係者がまだサーキットに慣れていなかった時代で。
----みんなで習熟していきましょう、と。なるほど! ……で、ここには表紙の“赤いフェアレディ”は出て来ない?
林 いえ、出て来ますよ、ほら。赤いプロトタイプとノーマルのフェアレディと、両方ね。
----お、ただのフェアレディの方は、表紙と同じ“ナナメ”角度。富士のバンク走行中ですね。
林 このバンクはねえ、走った人たちの話を聞くと、みんな“落ちる”と言ってました(笑)。
----“落ちる”?
林、うん、『もてぎ』みたいに平らなところにじゃなくて、地形そのものがボコッと下りになってるところにバンクをつくったので、バンクに入っていくと、途中から“落ちる”感じになる、と。
----ははあ、“曲がる”んじゃなくってね?(笑)
林 コワかったと思いますね、クルマも(車体が)よじれて“変形”しちゃうし(笑)。当時に富士のバンクを走った人たちの話を聞くと、みなさん、それぞれに“おもしろい話”をしてくれます。秘話がいっぱい!
----ところで、前にこのトークで出て来たハナシだけど、林さんが、この頃は出版物でのカラー・ページというのがとても貴重であって?
林 ええ。
----だから、当時の“レース雑誌少年”は、モノクロの写真を見て、これは何色のクルマかがわかったと?
林 うん、そうよ!(笑)
----この121ページのフェアレディ風プロトタイプは、これは赤色ですか? まあ、これは表紙が“傍証”になるからバレバレですけど(笑)。
林 これは赤、明らかにね! 表紙がなくてもわかる(笑)。赤色は、モノクロページでは、かなり黒っぽくなるんです。でも、黒ほどじゃない。
----おおー!(笑)じゃあ隣にある写真、ベレットの色は?
林 これは濃紺か濃緑っぽいね。……というか、これテスト中で、ドアとボディの色が違ってるけど、ドアの色は赤かもしれない。
----すごいなあ! それなら、その上に掲載されてるフェアレディは、きっとシルバーですねって、これ、裏表紙にあるフェアレディが銀色だから、言ってみただけだけど(笑)。
林 その通り、これは銀ね。そして、120ページのバンクを駆け下りてくる三台のブルーバードは、薄緑、紺、焦げ茶の三色です(笑)。
----あのぅ~、何か“法則”みたいなものがあるんですか?(笑)
林 うん、赤は、青系や緑系よりも“淡く”見える、モノクロでは。とくにハイライトというか、光りが当たると、黒っぽさが弱まって、濃淡の違いが強く出て来る。例のフェラーリの「P3」、あれももちろん赤で──。
----あ、“ジーナ・ロロブリジダ”様ね(笑)、48~49ページの。光りが当たってないところは、たしかに黒っぽいけど、そうでない部分は、ウン、淡いというか白っぽいというか?
林 そうそう! ……ということで、これは赤い二台。
----デイトナのモノクロ写真でも、これ全部、林さんは“色つき”で見てたんだ?(笑)
林 まあ、そういう時代で……(笑)。昔の読者は、モノクロ写真を見ながら、サーキットの風景や色や音や匂いを、想像というか“妄想”したんですよ。いまみたいに、簡単には現場に行けない時代でもあったし。テレビだって、まだモノクロでしょ。
----1964年の東京オリンピックを機にカラーテレビが増えたらしいですけど、それは一部オカネモチのことで。「3C」という言い方があったですよね。これには、庶民はまだそれは持てないよ!という意味がウラに含まれてました。カーとカラーテレビと、もうひとつは何だったっけ?(笑)
林 色は、見たい見たい!と思ってると、色付きで見えてくる。それで、雑誌にたまにカラー写真が載ってると、たとえば、あっ!このクルマは黄色なんだ!……と、瞬時にして頭にインプットされる。
----ははあ、そうやってメモリーを積み重ねて?(笑)
林 そうすると、別の号のモノクロページに同じクルマが載ってたときには、それはもう黄色以外には見えない(笑)。カラー写真が少なかった昔の方が、写真自身が発する読者への“訴え度”は高かったということですかね。
----まあ、ピンク映画もパートカラーで、“あの場面”だけがカラーでしたから……って、これセンパイに聞いた話ですけど(笑)。
林 ウソでしょ?(笑)
----でも、モノクロ・ページの“色”に関して、すごいコメントで。今日は深いハナシが聞けてよかったな(笑)。
林 “昨日のココロ”でしたね(笑)。
----“明日の……”でしょ(笑)。あの~、それってTBSラジオの「小沢昭一的こころ」ですけど、林さんは、雑誌少年であってラジオ少年でもあった?
林 うーん、ラジオは聴いてましたねえ。わが家では夜、ラジオから、よく落語が流れてました。当時の三遊亭金馬とか桂小南くらいしか、ガキには楽しめなかったけどね。
----そう、コドモにはね(笑)。円生は渋すぎてわからず、志ん生は“ブッ飛び過ぎ”で、これまた難解で。
林 「小沢昭一的こころ」はむしろ、編集部でバイトを始めてから、写植屋さんに出張校正に行くと必ず流れていた記憶があります。写植機がガチャガチャいう騒音と「明日のココロだぁ」のセリフが、ぼくの記憶の中ではセットになってますね。
----その番組、もちろん記憶があって、私もファンでありました。でも、あれ? 俺はどこで聴いてたのか。主に、移動のときのカーラジオだったかも。
林 “ありました”なんて、過去形で言ってはいけません。いまでも健在ですから、これ。
----えっ、番組は継続中? おおー、そうなんだ!
林 ハナシがその日で終わらず明日以降に続くときの、小沢さんのシメのセリフね。「この続きは──」
----「明日のココロだあ~!」(笑)
林 ところで、この企画の“明日のココロ”は?(笑)
----今回が1966年の号ですから、次回は、少し時代を動かしてみるというのは?
----シャパラルに続くのが、この「光芒の果て」という小説なんですが?
林 いや、今回、このトークをやるんで、あらためて読んで、何でこんなもんがここに入ってるんだろう?と思ったけど(笑)。
----この号が連載小説の第一回目。文中に嵌め込まれた“中見出し”を拾っていくと、「愛人/黄色い車/女の階段/背信」となってます。
林 あ、そうだっけ?(笑)
----この見出しだけ見ると、「月刊・小説ナントカ」に載ってるような“女の道”がどうこうというハナシみたいですが(笑)。
林 まあ、これは当時の雑誌作りのセオリーというのかな。一冊の中には必ず、この手のモノが入ってるというのは。
----ええ、そういう雑誌作りの“文法”に即してのことだったでしょうね。……で、中見出しこそ上記の通りですが、編集部が付けたはずのリード文は、「実在のドライバーに取材して、その内面をえぐった問題のモデル小説」となっていて。
林 でも、この第一回に関して言えば、レースの“レ”の字もないけどね(笑)。
----小説の書き出しは、「もう数日で十月の声を聞くというのに、日盛りの火照りが夜の空気を蒸しているような湿気が坂の下から上がってきていた。舗装はしてあるが、かなり急な坂を、秦頼三は伸子の肩に手をかけて……」、以下、略しますが。
林 ただし、この号のあと、話がどうなったかと“つまんで”行くと、ちゃんとレースというか、モータースポーツの話にはなってます。
----雑誌の手法として、真正面からの記事としてはなかなか書けない、また書きにくいようなレース界の事象を、小説という手法ならカタチにできるという、そんな狙いも?
林 ウン、あったかもしれないですね。
----でもこれ、小説の材料とされたのはサーキット・レースではなくて?
林 話としては、マラソン・ドゥ・ラ・ルートという、リエージュ~ソフィア~リエージュのラリーがあって、それに、日本人のドライバーとして「古我信生」という人物が挑戦する。そして、クラス優勝したり、事故に遭ったりとか。
----あ、そのリエージュでのラリーって、ホンダから出たドライバーが事故死するという事件が実際にもあったのでは?
林 ええ。その場面は主人公が目撃するというか、小説はその状況には至りますね。だからストーリーは、それをモチーフにしていたな、と。
----フーン。
林 さっきの話じゃないけど、小説仕立てにして、その裏話を書こうとしたんじゃないでしょうか。
----なるほど。
林 たしかに当時、『黒の試走車』を始め、クルマ産業とかモータースポーツがらみの小説がいくつも出てたよね。
----『黒の……』は梶山季之でしたが、あと、大藪春彦とか。
林 『汚れた英雄』ね。だから『オートスポーツ』であれ、こういうのが載ってるというのは、やっぱり“おもしろい”よね。
----そうですね、時代というか、当時の状況がうかがえるようで。……で、小説なのでちゃんと挿絵も付いていて。100ページのそれは、ソファに色っぽいおネエさんが横たわっています(笑)。
林 纏っているのがミニ・スカートだかバスタオルだか、よくわからないけど(笑)。
----床にスリッパがあるから、バスタオルなのでは?(笑)
林 これがミニ・スカートにも見えてしまうというのも、時代だったでしょうか?(笑)
----その種のスカートを流行らせた立役者のひとりに“トゥイッギー”という人もいましたね。彼女は、いま風に言えばスーパーモデルでしょうが、ただし、そうは言っても今日のように長身ではなかった。
林 “八頭身”というのは?
----それはむしろ、50年代だったのでは? ミス・ユニバース・コンテストか何かで上位に入賞した日本人女性の体型を賞賛してのことで。
林 あ、そうだったんだ。
----1950年代としてはあり得ない、そういう“超レア”な彼女のスタイルを評した新語だったと思います。一方ミニ・スカートは、この頃、誰もが着ていた。
林 そうでしたねえ!
----日本人の五頭身体型にはどうとか、そういう悪口を言ってたオヤジもいたけど(笑)、女性たちはみんな、そんなの無視した。60年代のクルマの大衆化とミニ・スカートは、どっかでつながっていたんじゃないか。
林 この「座談会」に登場していた令夫人各位も、このとき、スカートはミニだったんですかね?(笑)
----それはわかんない、写真には写ってないし(笑)。えー、話題は移ってまして、連載小説に続く記事のことを喋ってます。それが座談会で、タイトルは「愛する夫はレーシング・ドライバー」。
林 これも、当時の雑誌のセオリーでしょ。一冊の中に座談会をひとつ入れようというのは。
----ここはちょっと、ここに登場する方々の名前を挙げておきましょう。TMSCつまりトヨタ・モータースポーツ・クラブからお二方で、多賀弘明氏と高橋利昭氏。それから、コルト・モータースポーツ、つまり三菱からは望月修氏。そして、俳優の江原達怡氏。江原さんはSCCNの所属、これはニッサン・スポーツカークラブでしたっけ。
林 ……という諸氏の、それぞれ、奥様ね。
----この頃の“レーシングドライバー”事情ということで、ちょっとお聞きしますが、当時、つまり1966年頃って、ドライバーっていうのは職業として成り立っていたんでしょうか?
林 ああ、それは……。
----たとえば、江原さんは俳優であったわけで。
林 これを読んでいくと、たとえば高橋さんは、どっちが副業だか本業だかはともかく、鋳物工場・経営ですね。
----多賀さんは、トヨタ・ディーゼル勤務時代があって、そのときに、のちに奥様になる要子さんと知り合った、と。
林 まあ、この頃に“ドライバー”であった人たちって、基本的にオカネモチであったはずなので。
----あ、“職業要らず”ということ?(笑)
林 どこかに勤めていたとか、そういうことがあったとしても、おうちがそもそもオカネモチで、その息子さんであったりとか。
----この中では、望月さんが二輪からのキャリアがあって?
林 望月さんは、渋谷・道玄坂で、望月モータースというオートバイ屋さんを始めたのが19歳のときだった。これはご自身で始めたのね、お父様は建築技師でした。そして24歳のときに、浅間火山レースに参戦。その後も、理論派のライダーとして鳴らした。
----そして、63年の第一回日本グランプリには、四輪のドライバーとしてスズキで走ってますね。
林 のちに自動車評論家に転じて、ジャーナリスト活動もされた。著書も複数あって、ぼくも編集担当として原稿を拝見したことがあったけど、旧仮名遣いなんですけど──。
----旧仮名? オイルのにほひ、とか?(笑)
林 そう(笑)。でも、そういう字面なんだけど、文章はすごく若々しかったというのが印象に残ってます。
----今回登場の方々の中では異色の存在かも、ですね。
林 望月さんはちょっと措くとして、この時期は、敢えて“ドライバー”なぞを職業としなくてもいいような、というか──。
----そういう人たちが、レーサーとして、サーキットを走っていた? なるほどね、ちょっと質問がヤボだったか(笑)。
林 そのオカネモチという職種の中に、芸能人というのもあって……。
----その中のクルマ好きがレースにも出ていた。フム、そういう循環ですね。でも大藪春彦の『汚れた英雄』の主人公は、カネモチ出身という設定じゃなかったと記憶してるけど。
林 そうしておかないと、女たちが主人公に貢いでくれないでしょ(笑)。でも一方で、たとえばギャンブル・オートレース出身のドライバーはいたし、また、オートバイ屋で丁稚奉公しながら、いずれは世界的なレーサーになりたいと夢見る男の子たちもいたでしょうから。
----ウンウン、そのへんを捉えて書かれてたんでしょうね、『汚れた英雄』は。
林 そういう彼らは、オカネモチ系ではなかったよね。
----ライディングにしてもドライビングにしても、腕一本で、この世界をのし上がって行ってくれ!というのは、作者の願望であったかもしれないですね。
林 まあ、だから芸能人も含めて、そういう、そもそも華やかな人たちが形成するソサエティみたいのがあって、その中に“レース”というものもあったというのが、この頃だったかもしれない。
----まあね。
林 それに加えて、二輪出身の“腕一本”組。そして、戦後混乱期に財産を築いた、ちょっぴりアブナイ部分もありそうな実業家。それに、お坊ちゃんのレーサー。まあ、こういう三系統だったのでは……というのが、ぼくの見方。そして、津々見(友彦)さんみたいに、情熱はたっぷりあって──。
----でも、そんなにおカネはなくて、だけどレースはしたい!という……。河原で野宿して、63年の日本グランプリに出場したんですよね。
林 そういう方々も、少なからずいた。まあ何にしても、当時はコドモだったから、ぼくには、よくわからなかったですけど(笑)。
----未熟であったということでは、私もそんなに変わらないです(笑)。……ところで、数年遅れでこの雑誌を買ったはずの“林少年”は、そのとき、この座談会の記事は読みましたか?
林 読みましたよ! 何か、誰かの奥さんに話が及んだときの、印象的なフレーズがあったな。どこだろ……? あ、いま探すと見つからないけど(笑)。ほかの本で読んだことだったかなあ?
----そういえば、生沢徹氏にしても、ホテル・オークラでしたっけ、そこのカフェに終日入り浸ってると、必ず誰か友だちが来たとか、そういう“ソサエティ”があったらしいことを、よく語ってますよね。
林 さり気なく、自慢げに(笑)。
----期せずしてか意図したのか、この座談会に続くのが芸能人によるコラムであったりして。
林 「スポーツ・ジャーナル」ですね。
----タイトルは「わたしたちの草レースを荒らさないで」。せっかくオカネモチ同士でというか、恵まれた人々が集って、ささやかにレースで“遊んで”いたのに、そこに、企業論理というか、自動車メーカーのシビアな競争原理を持ち込まないでと、ひとりの女優が怒っています。
林 夏川かほる女史のこれは、『オートスポーツ』誌上では、たしか不定期連載みたいになっていたかなあ?
----「第一回日本グランプリ以前、モータースポーツ愛好者は、小さなクラブ組織の中でのみ愛車を走らせていました」と、この一文は始まりますね。
林 まあ、こう彼女がブツブツと喋ったことを、編集部の誰かが原稿にしたという感じはありますが(笑)。
----日本のカーメーカーは、たしかに「63年GP」よりも前は、レースとの関わりは薄かったですよね。とくにサーキット・レースは。そこに、62年にいきなり鈴鹿サーキットが誕生したので……。
林 だから、63年の「第一回」というのは、どのメーカーも“困ってた”みたいですよね、その対応に(笑)。
----この“グランプリ”なるレースに、会社として、出た方がいいのか、出ない方がいいのか?
林 そう、無視するべきなのか、から始まってね(笑)。そこから、いろんなスタンスがあったけど。ニッサンなんかは結局、練習のときとレースのときと、まったく違うクルマを(決勝には)持ってきたようだし。
----あ、そういう対応。それは、田原源一郎選手のフェアレディだったり?
林 あるパーツ輸入会社の社長の奥さんがブルーバードで出場するんだけど、練習走行してたら、ニッサンの人が来て、「このクルマは、完走しないから出ないでください」って言ってきて。
----え……!?
林 エントリーしたその社長夫人としては、いろんなパーツを融通するとか、ニッサンに協力してほしいと思ってたのに、そうではなく「出ないで……」と言われて、逆にムッとして、ワタシはどうしても出る、と(笑)。
----おお~!(笑)
林 そのときに、同じように練習していたニッサン車のユーザーが何人もいるんだけど、練習に行くと、田原さんのクルマだけが、日ごとに高性能化して行くというか、どんどん変わって行ったとかで(笑)。メーカーとしても、勝てそうなクルマには援助をして、そうでないクルマには「やめてください」と、そういう態度だったようです。これは、その奥様ご本人から聞いた話ですけどね。このへん、『日本の名レース100選』061号に詳しいので、どうぞよろしく。
----「第一回」のときは、メーカーは一応申し合わせもしていて、このイベントには関せずってことになってたわけでしょ?
林 表向きは、ね(笑)。でも、やっぱり(メーカーとの)関係の深い人には、あるスペシャルなもの(パーツなど)を渡したとか、そういうこともあったみたいで。
----でも、「第一回」が終わってみたら、その反響がすごかったから?
林 そうです、勝ったメーカーが大々的に広告を打ったら、その車種の売れ行きが伸びた。そこで、初めてね。
----レースってのは“価値”があるんだ、と。
林 そこから「第二回」に向けては、みんな“燃えた”わけですよ(笑)。
----この「スポーツ・ジャーナル」に話を戻すと?
林 この“荒らさないで”は一理はあるかもしれないけど、でも、ちょっとズレてる部分もあるな、と。
----それは?
林 この頃は、日本の自動車レースの黎明期でもあるので、そのときに、アマチュアのレースだけでは、やっぱりショボイ範囲にとどまるわけですよ。
----ウム、そうですよね。
林 自動車メーカーが乗り出してきたから、あれほどまでの盛り上がりになった。これは、やっぱり無視できない。まあ夏川さんは、たしかにレース好きで、当時の若手のドライバーを“育てた”とか、そういうこともされてましたけど。
----そのドライバーというのは?
林 柳田春人選手、そして、ほか数名。いまスーパーGTで活躍している柳田真孝選手のお父さんですね。春人さんはフェアレディZに乗って、『Zの柳田』として勇名を馳せた。
----その彼を支援して?
林 柳田選手が新人選手時代に、彼のレースマネージャーに夏川女史自身がなって、スポンサー回りとかメディアへの売り込みなどをした。その代わり、夏川さんが舞台に出るときなどは、柳田選手が送り迎えの運転手をしたそうですが。
----おお、『汚れた英雄』の主人公はけっこう尊大で、女性を送り迎えするようなケンキョさはなかったようだけど(笑)。
林 柳田春人さんご自身の証言をここで言っておくと、その種の“小説みたいなこと”は皆無であった、と。まあ、こう言っちゃ何ですけど、このお二人、年齢も相当に違っていたので……。
----そうか、柳田選手は当時?
林 69年にレース・デビューしますが、そのとき19歳。そういう若者のサポートを、年長のパトロンとして、夏川さんはなさっていた。こういう歴史というか史実も、いま、語っておきたいですよね。
----さて、その《東京サーキット》の記事に続くのは、ジャーン! ついに登場、「ジム・ホール」。いずれ、彼とそのマシン「シャパラル」については……と、“明日のココロ”で(笑)予告ばっかりしてきましたが、ようやくここで。
林 そうですね。
----でも、1966年に“新装開店”のこの本で、なぜ、この人なのか?という問いを、まずは発してみたいですが?
林 それはやはり、時流に乗ってたからでしょ。(採り上げるのが)キャロル・シェルビーでもいいけどさ、ここはやっぱり、ジム・ホールとシャパラルで行こう、と。
----そんなに実績はあった?
林 うん、アメリカ国内では、ちゃんと成績は出していた。国内の、まあ、草レースって言っちゃいけないのかもしれないけど、そこではね。ここにも、「シャパラル2」の戦績が載ってるけど。
----94ページですね。……あ、63年から、しっかり活動してるんだ。
林 それは「シャパラル2」になってからの成績だけど、その前に「シャパラル1」という時代があって、それが実は──
----あ、あの「スカラブ」の?
林 そう、スカラブをやってた残党が作ったマシンが「シャパラル1」だった。……で、「2」になって、クルマがミッドシップになって、そのときはもう、スカラブの残党はいなくなってたんだけど。
----なるほど~! 学習しておいてよかった(笑)。それで、この91ページにある“リード文”でも、1964年に15レースに出走して7勝、65年には20レースに参戦して、え? 「うち優勝17、2位7」って、すごいね、これ!
林 そう、「2」になって、そういう爆発的な……っていうのかな、そんな戦績だから、65年の暮れから66年の初頭にかけて編集作業が行なわれたと思われる、この“月刊1号”に、シャパラルのためのページが取られるというのは、何の不思議もない。
----おお、そうですねえ。
林 そして、たかがアメリカ国内(笑)ではあったけれど、それも、しかもオートマチック(のレーサー)で、話題性はあるし、格好はいいしで、だから……。
----そうだ、オートマチックだったんですよね。ということは、これは2ペダルのレーサーだった?
林 そうですよ。……で、さっきも言ったけど、GMのエンジニアたちが入り浸ってたんだよね、テキサスに。
----テキサス、つまりジム・ホールのところに?
林 デトロイトから遠く離れたテキサスに、みんな(エンジニアたちが)遊びに来てるわけ。表向きは、どういう名目だったかわからないけど。そこで、いろんなトライをして、(シャパラルと名付けた)レーシングカーに組み付けて、そういうのをやってて──。
----フーン! それは、フォードのプロトタイプでのレース活動をどっかで意識しつつ……でもあったんでしょうね。
林 シャパラルがカッコよかったのも、GMのデザイナーがやってたからだという話もあってね(笑)。
----そうか、コルベットはGMだ?
林 うん、「2」の64年型からフロントスタイルがガラッと変わるんだけど、これがコーヴェットの「スティングレイ」ではなく、当時のコンセプトカー「マコシャーク」にそっくりなの。
----ここ(93ページ)に、女性と一緒に映ってる写真がありますが、けっこうハンサム・ボーイですよね?
林 ジム・ホールはハンサムですよ、背は高いし。
----あ、最近はイケメンと言わないと通じないのか(笑)。そのイケメン・ジムさんの隣にいるのは奥さんでしょうけど、ちょっとイタリア・モードもある美貌の女性で? サンドラ夫人か、この名からするとやっぱりイタリア系かな。
林 “サンディさん”って呼ばれてたような気がするけど、きれいな人でしたね。
----ジーナ・ロロブリジダと同じ頃に、同様に蠱惑的なサンドラ・ミーロっていうイタリア女優がいて……なんて言ってると、またハナシがそれちゃうから自主規制(笑)。
林 ハハハ(笑)。……で、この記事は、書き手が、さもテキサスまで行ってきたような書きっぷりになってるけど。でも、これ、ほぼ同じような記事が「ロード&トラック」誌だかにあった。だから『オートスポーツ』の編集部としては、そういうのを目ざとく探して翻訳してたんでしょうね。
----その種の記事をベースに、この記事は書かれていた……ようだと、ここで勝手に推測しておきます(笑)。
林 だから、自分ちの敷地内にサーキットも作り、そこを毎日走り込んでいる……みたいなことを書いてるけど──。
----うん。
林 これって、実際に自分で取材に行くか、そういうことが書いてある誰かさんの記事を読まない限りは、わかんないことだから(笑)。
----この「Chaparral」って、現地というかアメリカ風に発音すると?
林 「シャパレル」ですね。“レ”にアクセントが来る。日本人は“シャ”を高くというか、“シャ”が強くて、そして“語尾下がり”みたいに発音しちゃうけど、彼らは“レル”が強い音になる。
----この記事では「チャパラル」ですよね?
林 当時、『オートスポーツ』は「チャパラル」と言ってた。だから、60~70年代にスロットカー・レーシングが流行ったとき、このクルマを走らせてる人が、自分のモデルカーを何て呼ぶかで、年がわかったりした(笑)。
----「チャパラル」と称した人は、60年代にこれを読んでいた“オートスポーツ・ジェネレーション”?
林 そう。でも『カーグラ』は(表記が)「シャパラル」だった。
----普通のアメリカ人なら、「 Ch … 」の発音は基本的には“チャ”ですよね、おそらく。……あ、でも、クルマで“シボレー”というのがあるから、アメリカではそう一概にいえないのかな。でも、これを“シャ”と読むのはフランス風というか?
林 あ、そうですね。だから、それは訊いた、本人に。
----本人に? あ、取材したんですね、ジム・ホールについては。
林 これ、また長くなるけど(笑)、とりあえず、この“読み”については、本人に確認しました。まあ詳しくは、ミスター・クラフトが企画して90年代半ばに限定販売された「シャパラル写真集」をご覧ください。この本、たぶん、いまは三栄書房で扱ってると思うけど。
----なるほどね。あと、このネーミングですけど、自分の名前なんかじゃなくて?
林 ええ、テキサスでのみ知られる鳥で、ロードランナーというのがいて……。
----あれ、それって、歩くだけで“飛ばない鳥”じゃなかったですか?
林 そうよ(笑)。
----へえ、おもしろいなあ! “フンコロガシ”の次は、地上を這いつくばる鳥か(笑)。そして、それをレーシングカーの名前に付ける、という……。
林 名前ごときで“速さ”を主張しない、というかね(笑)。
----でもね、何かセンスを感じます、この“一派”には(笑)。アメリカンな、ジョークを好むスピリットというか。
林 “ジョークのココロ”だあ!(笑)
----ムフ、また出ましたね。そのへんの“小沢昭一”的問題というのは、いつ“解決”すればいいのかなあ……?(笑)
----83ページからの3ページは広告が並びます。広告といっても、これは各企業名が並ぶ、いわば名刺代わりというか。
林 ご祝儀広告ということではないでしょうか。
----この“月刊1号”のための? あ、そうですね、「祝」という字も見えます。「月刊に飛躍! (あいうえお順)」……。
林 だから、「ア」で始まる会社がトップにあるんですね(笑)。
----具体的な企業名を出すのは、ちょっとアレかもしれないので、その会社のジャンルとかどんなコピーを掲げてたのかというのだけ、見ていきましょうか。
林 その「ア」の会社は、でも、何もコピーはないですね。取締役会長と取締役社長の名前だけを並べてます。
----だから“個人広告”という感じも濃厚ですよね。Aという会社をやっているBです、月刊化おめでとうございます、という──。
林 当時の三栄書房がお付き合いのあった会社に、三栄の営業部が回って、広告の出稿をお願いできませんか、と。
----そうですね、84~85ページの見開きでは1ページあたり10社ずつですから、小さいもので結構ですから御社の賛同広告を、といった感じで集めたんでしょう。
林 だから、必ずしもモータースポーツに絡んでいるとは限らないわけで。
----ええ、……というか、ソッチの方がむしろ例外じゃないですか?(笑)
林 言われてみれば、そうですね(笑)。「カーレースは都心に近い 船橋サーキット」というのと、この添加剤と、あとはヘルメットくらい?
----でも、そのヘルメットの広告って、「どなたでも! いつでも! どこでも! お気軽に!」、それで「 **** のヘルメットをどうぞ!」というコピーですよ(笑)。
林 うん、このヘルメットは、あまりサーキットの匂いはしないな(笑)。
----あ、でも、レーシングタイヤの扱いを謳うタイヤショップの広告もある。あと、これはレーシングマフラー専門という会社で。
林 レーシング・ヘルメットの広告は、ちゃんと“表3”に入ってますね。今日にまでつながるA商店。
----カラーなど大きな広告では、“表4”のニッサンをはじめ、トヨタ、プリンス、ダイハツなど、スポーティなクルマの広告は押さえてあるし、タイヤもダンロップとグッドイヤーはしっかり載っている。
林 だから、“営業力”は結構なものだったのでは?(笑)
----そうですね。この見開きだけを見て、この号掲載の広告について、レース雑誌じゃないじゃないか!というような類のコメントを発してはいけない気がします。
林 そうですよ。……で、87ページに行くと、「“東京サーキット”建設計画の全貌」。
----これは?
林 具体化はしなかったんですよね、結局。
----と、つまらなそうに(笑)短くひと言。
林 ハハハ(笑)、正確に言うと、この記事は読みませんでした。……というか、この66年の号を、リアルタイムで買っていたわけではないという話は、前にしましたよね? そしてぼくがこの本を手に入れたとき、この66年の三年後くらいですが、その時点でこの“サーキット”は存在してないわけですよ。
----ははあ?
林 だから、のちに遡ってこんな記事を見たってね。何だ、ガセネタだったんじゃないかと、それだけで、読む気にもならなかった。
----でも、ここ読むと、すぐにもできそうですよ(笑)。「都下西多摩郡秋多町に、またひとつ、新しいレースコースが誕生する」「鈴鹿、船橋、富士に次ぐ第4のレース・コース」。4月の末には工事も始まる、と。
林 工事は、予定通りに始まったんじゃないですかね? 何らかの施設はできたはずなので。この記事での注目ポイントは、記事の最後の部分ですよ。
----「《東京サーキット》ではレース・コースと合わせて、レジャー・センターを同地につくって、家族で楽しめる、いわゆるファミリー・ランドを設ける予定でいる」というあたり?
林 あ、それ。その「ナントカ・ランド」だけは、この記事の通りに、できたようですけどね。
----これに載ってる地図と、本文での説明、そして現在の地図も合わせると、町名はもう変わってしまってるんだろうけど、多摩川に注ぐ秋川の西岸で、山ではない平地部分で、そこにあるレジャー施設っていうのは、要するに“東京サマーランド”ではないですかね?
林 あ、ピンポン!だと思います、おそらく。行ったことないし、よくは知らないけど(笑)。
----私も、ここまで足を伸ばしたことはないですが(笑)。でも、サーキットこそできなかったけど、《東京……》というネーミングにはこだわったんだなという感じは、ヒシヒシとします。
林 記事をあらためて読み直すと、これは、当時の……って、いまもあるか、イースタン観光が主導のプロジェクトで、その社長が藤本威宏氏。それで、この藤本さんのオヤジさんが「藤本軍次」で、えーと、この記事でもあるでしょ、「父親の軍次氏は日本のオート・レース界の草分けとあって」ウンヌンと。
----え、「藤本軍次」? つまり「ジョージ藤本」?
林 ジョージかどうかは知らないけど(笑)、軍次さんの、その息子さんが噛んでる、これには。……で、すぐに着工できそうと、この記事に書いてはあるけど、やっぱり、紙面に載らなかったようなレベルの問題や困難さがいっぱいあったと思うのね、サーキットをつくるということでは。
----それについては、林さんがこの“月刊1号”を買った時点で、すでに答えが出ていたんだ……。
林 いまでこそ、00年代以降というのかな、いろんなところに“ミニ・サーキット”みたいのがいっぱいできてますけどね。
----この記事でひとつ興味深いのは、“純国産”を強調していることです。ちょっと読んでみますね。「鈴鹿は、モンツァを設計したハウゲンホルツの手が加わっているし、船橋はピエロ・タルフィ、富士はスターリング・モスの助言を得て」……という指摘をして、しかし、このサーキットは「いっさいを国内技術者の手で」まかなう、と宣言しています。
林 その“ハウゲンホルツ”はフーゲンホルツと発音されることが多いですけど、彼が設計したのはモンツァじゃなくてザンドフールトで、と軽い突っ込みを……。それで、ここで国内とか日本人でとこだわっているのは、藤本軍次さんから受け継いでの“スピリット”が絡んでたかもしれないですね。
----「藤本軍次」って、あの“多摩川スピードウェイ”をつくった人ですよね。
林 あ、知ってます? “多摩川スピードウェイ”を語りはじめると、本一冊くらいになるので、端折って言いますが、1936年、昭和でいうと11年に、東京と神奈川の境を走る多摩川沿いに、一周1キロほどのオーバルコースができた。丸子橋のそばですね。観客席だった石の段々はいまも残ってますよ。
----ええ、先般、取材というか実物を見たくて、そこに“座り”に行ってきました(笑)。
林 ホォ! その“多摩川スピードウェイ”建設の首謀者が、1922年にアメリカから日本にレースカーを持ち込んで興行していた藤本軍次さんだったわけです。
----さっき「ジョージ」と言ったのは、アメリカ在住時代に藤本さんがこう名乗っていたそうなので。……で、帰国後にはレースの興行のほかにも、自動車と鉄道の競走をしたと、ある資料にありました。これは、クルマというものの速さを、当時の日本人と日本社会にアピールしたかったんでしょうね。
林 鉄道と競走? 自分で運転して?
----そうです。当時、つまり1920年代に、下関から東京までは急行列車で28時間かかった、と。それなら、自動車で勝てるというのが彼の目論見だった。ただ、当時の日本国には、アメリカと違って、自動車を自動車らしく走らせることができる“道”はなかった。
林 ウンウン。
----その頃の“道路”では、大八車が対向して来ると、それとすれ違えず、あるいは、荷馬車に追いつくと、追い抜くのに数時間を要したといいます(笑)。また、富士川は橋がなかったので、浅瀬を探して渡ったとか。……というわけで、急行列車の“28時間”には勝てなかった。
林 それはいかにも実践派というか、それ以上に“実戦派”であった藤本さんを彷彿とさせる挿話ですね。……いや、ぼくがなぜ、この名前を深く記憶することになったかというと、それはたぶん、66年夏頃だったと思うんだけど、わが家で愛読していた週刊誌『サンデー毎日』のグラビアページに、衝撃的な写真が載ったんですよ。
----ほお?
林 たしか「インディに挑むおじいちゃんレーサー」みたいなタイトルで、見開きのページ。頭はツルッ禿でメガネをかけた爺さんが、いかにも手作りな大型フォーミュラカーに、ミッドシップじゃなくてフロントエンジン車だったけど、それに乗ってる図──。
----え、“インディに挑む”? 走るってこと?
林 そのときぼくは11歳のガキだったけど、そんなコドモの目からしても“それはないだろう”と思った(笑)。66年の10月に、急遽、富士スピードウェイで開催されることになったレース「日本インディ」に挑むという、60歳だか70歳だかのお爺ちゃんの名前が、そう、その「藤本軍次」さんだった。
----そ、それはすごいな!
林 でも、そのとき(66年時点)には、初めて見た名前だし。ただ、その年齢というか風貌からして、インパクトありすぎ! 誰なんだろう、この人は!?と思った。
----そりゃ、そうですよねえ! ……で、「日本インディ」には?
林 結局、「日本インディ」には、日本人は一人も参戦せず、でした。だから「藤本軍次」の名前も、急速に忘れて行ったんだけど、後年に“多摩川スピードウェイ”を調べ始めた途端、再会したわけです。
----おお~!
林 その名に出会ったときは、驚いたというより、「あ、そういうことだったのね」と、あらためて思った。
----66年の時点で、藤本さんがそうだったとしたら、サーキットくらいはつくりたいと思ったでしょうね。そうか、だから《東京サーキット》だったんだ!
林 こんなふうに、最初は全くバラバラに違う方向を向いて存在していた情報が、ある日ある時、カチッと音を立てて繋がって歴史を築いていたんだと知れるのが、長くレースを眺めていて一番楽しいところですね。
----「藤本軍次」というフィルターを掛けて見ると、むしろシンプルにつながってるというか、一貫してますよね。レースの興行、鉄道との競走、“多摩川スピードウェイ”をつくって、そしてインディへの熱は冷めず、さらには、新サーキット建設の夢まで……。
林 1920~30年代に戻ると、日本で最初に自動車レースが開催されたのは大正期。そして、この昭和初期の時点で、自動車レース自体は日本にも細々と存在はしていた。藤本軍次さんは、その推進役の一人だった。
----ええ。
林 当時の日本には、まだ、今日のJAFのような“立派な”統轄団体なんてなかったし、興行主が適当な場所を見つけては、お金持ち実業家とか、自動車メーカー以前の町工場製作のレースカーが集まって、ブイブイ言わせてた。その“多摩川”のオープンイベントに出場した若き本田宗一郎さんが大事故に遭う話は有名ですよね。
----本田さんがレース場に持ち込んだのは「浜松号」でしたか。エンジンのパワーは、出場車中でイチバンだったそうですけど。
林 その後数年して、日本は太平洋戦争・第二次世界大戦へと突入して、自動車レースどころではなくなってしまうわけですが。
----“多摩川スピードウェイ”は、そのまま終焉へと?
林 いや、戦後すぐに一度、二輪のレースは行なわれました。でも、それを最後に“多摩川スピードウェイ”は歴史の彼方へと消え去ってしまった。それから15年近いブランクがあって、1962年に、三重県・鈴鹿サーキットが誕生。日本の近代レースは、夜明けを迎えるわけです。
----“多摩川”の痕跡に行ってみたら、ほんとに“遺跡”だけしかなくって、そしてどこにも、その種の歴史を記述するものはなくて……。立て札くらい建てとけよ!と思いましたけどね。
林 外国には、サーキットごとにきちんとした歴史書があったり、“廃線”ならぬ“廃サーキット”を訪ねて歩くマニアがいたりして、古今のサーキットをつくった人たちをリスペクトする風潮があるのに、日本ではそれがまったくないですよね。
----この“多摩川”なんかは、場所もいいのにね。ここでもう一度レースをやろうなんてことは申しませんが、かつてのオーバルが、そのままジョギング・コースになってたりしたら、みんなで楽しめると思う。「ここで浜松号が転覆しました」とか、そんなガイドもあってね(笑)。
林 サーキットの歴史では、中には、たしかに怪しげなモノもあったけど(笑)、でも、実現せずに夢で終わったサーキットも含めて、現代人がちゃんと調べて書き残すべきなんだろうなと、オジサンはいま強く思いますね。この記事《東京サーキット》を読み飛ばしちゃいけなかったなと、反省もしてます。
----ところで、広告に話を戻すと、この記事中にあるリクライニング・シートの広告。コピーも、けっこうおかしいけど(笑)。
林 「あなたの御希望になっていることは? それは座席をリクライニングシートに改造なさりたいことです」……(笑)
----この時期、多くのクルマのシートは、リクライニングという機能を持っていなかった? 乗用車として設計されたものなら、背もたれは後ろに倒れたと思うけどな?
林 ワンタッチで、それができますとか、そういうことだったのかもしれないですね。
----ここに「鈴鹿だより」というのがあります、72ページ目のカコミ記事ですが。リッチー・ギンサーが公開試走します、そして、ダンロップ・ブリッジが完成しました……。
林 ホンダのF1がらみイベントの告知ですね。そして、ダンロップ・ブリッジというのは、鈴鹿に最初からあったわけじゃないので。
----いまでもありますかね、これ? 設置された「100R」地点とはS字を抜けたあたりかな。
林 87年に、これからF1を継続してやりますよというときに、取っちゃったんじゃなかったっけ?
----あ、スポンサーがらみで? F1に関係ないぞと?
林 取らなくても、この橋に「GY」とか描けばよかったのにね(笑)。
----80年代のF1タイヤは、ブリヂストンはまだ参入してなくて?
林 ええ、グッドイヤーの事実上のワンメイク。60年代前半はダンロップのひとり舞台でしたが。
----この“橋”は、この“月刊1号”の1966年に生まれ、そして1987年には消えてしまった。フーン、ここで、その誕生記事に接しているわけですね。
林 20年間存在し続けて、そして、なくなってからもう25年。でも、ぼくの頭の中には、いまでもこの“橋”はあるような気がする。
----その次の記事が「白熱化する秒の争い」。日本グランプリに関連する情報のページです。「グランプリまであと1ヵ月、富士スピードウェイのコースでは、各社・各クラブのトレーニングがいちだんと激しさを加えた」……以上、原文のままですが。
林 この記事の中に、表紙のクルマも出て来るんじゃないかな。
----あ、ありますね。「改造フェアレディ」というだけの短すぎるキャプション付きで。
林 本文記事では、「改造フェアレディがそれだ。当初は6気筒エンジンを積んで走ったが、その後4気筒にしたという」として、ドライバーは北野元、高橋国光が有力となっています。
----お、そうか。この頃は「日産とプリンスの激突か」という見出しなんですね。バトルしちゃうんだ、この二社が!
林 別会社ですからね、当時は。
----さらに、記事によれば、グランプリの“プロトタイプ部門”で、ニッサンはミッドシップ車と、そしてこの“改造フェアレディ”を用意している。一方のプリンスは、ブラバムのフォーミュラ・シャシーにDOHCエンジンを載せてみたり。さらには“R380”も「……繰り出した」と記事が続くのは、富士でのテストに、その“R380”まで持ち込んだということですね。
林 諸説あって、どれがホントかわからないんだけど……。えー、ニッサンが独自にプロトタイプのスポーツカーを開発するつもりでいて、そして、それ用のエンジンというのをヤマハに開発させてたようで。
----ニッサンがヤマハに? トヨタが、じゃなくて?
林 うん。でもニッサンとプリンスの合併が内定して、ニッサンとしては、「じゃ、プリンスさんが“R380”で最後の一花というか、グランプリに出て来るんだから、私たちは“ニッサン・プロト”を(レースに)出すのを止めますよ」となったようです。
----66年のグランプリには?
林 そう。だから、65年の末とかそういう時点で、この“ニッサン・プロト”というのは、その開発は消滅してるはず。だけどエンジンは余ってて、だからテストで、こうしてフェアレディに載せてみました……なんだろうけど。
----はあ?
林 その時点で、ヤマハはニッサンとの話を切って……というか(プロジェクトが)ご破算になっていて。それで、たぶん別のエンジンなんだろうけど、同じ直6リットルDOHCのエンジンを設計して、それをトヨタの「2000GT」に載せるというのが動いていて──。だから、このときフェアレディに載ってるやつは(素性を)明かしちゃいけないエンジンなんですよ。
----おお!
林 そういう事情ならば、ヤマハの側からは何も言えないですよね。そして、トヨタとニッサンは、バチバチのライバル。……ということで、このエンジンの“デドコロ”というか成り立ちは、永遠のナゾになってるわけです(笑)。でも、話としては、ヤマハが開発したものであると──。トヨタと組む以前にね。
----フーン……。当時は、そういうことはわかってなかった? あるいは、わかってても書けなかった?
林 他誌のグランプリ・マシン解説なんかには、どうやらヤマハが関わっているらしい……くらいのことは書いてあった。
----この記事には、「静岡にはヤマハの工場がある。トヨタとヤマハはすでに混成部隊を組んで、富士でトレーニングをしている。そこで、静岡→ヤマハ→トヨタのラインが……」云々と、奥歯に物が挟まったような表現になってますが?(笑)
林 いや、トヨタとヤマハのパートナー話というのは、もう公然の秘密だったから、それは、そんなには“挟まってない”(笑)。それに、その後もずっと続きますよね、両社の関係は。「トヨタ・セブン」のときもそうだし。
----ええ、それは知ってる人も多いと思います。ただ、ヤマハがトヨタ以前に、トヨタ以外の会社とコンタクトがあったというのは、あまり知られてないのではないか?
林 噂話として、当時、そういう話は少しは流れていて。……で、否定する要素は何もない(笑)。そして、のちのち、“あと取材”によって、ニッサンとヤマハの関係を裏付けるようなものが出て来る。ただその頃には、こっちの、もっと大きな“トヨタ&ヤマハ”の問題というのがあるから、メディアもあんまり根掘り葉掘りで(ニッサンとの関係を)追求しなかったというか。
----ヤマハとしても、もう、ニッサンとのムカシ話なんかしてもしょうがないし?
林 そうです。でも、この“改造フェアレディ”に載ってるエンジンにしても、当時のニッサンの技術だけでは、こういうエンジンは作れなかったということだったかもしれません。それと、いまこれを読んでるアナタだけに、こっそりいいこと教えましょう。「Nissan B680X」で検索すると、ちょっと驚く情報が知れます。……あ、これ、みんなに言っちゃダメよ(笑)。
----聞こえなかったということで(笑)。あの、この頃のヤマハはつまり、そんなに“優れていた”のですね?
林 そうなんでしょうねえ。
----引く手あまた、求婚者は何人も、モテモテ状態ですよね?(笑)
林 ただ、ヤマハの四輪車ってないですからね。あくまで、エンジンを作るまでで。そして後々80年代には、ヤマハのF2エンジンだってあるわけだから。
----それで言うなら、F1エンジンまでやりましたよね、ここは。そういう意味で、四輪の世界と非常に関係が深い二輪屋さんなんですけど、しかし、頑固なまでに(笑)四輪車を作ろうとはしない?
林 ……ねえ!(笑)
----四輪車のフィールドには乗り出さず、でも、四輪の各社とはお付き合いはしよう、その方が“オイシイ”と?(笑)
林 自分たちが、わざわざ四輪・市販車を作るというようなリスクを負わずに?
----ライバルになるよりパートナーで、と?
林 なるほど、そうかもね。その点、ホンダは四輪メーカーになりたかったわけだけど、ヤマハは“そこ”で十分だった。
----うん、「ホンダ」になろうとはしなかった。
林 何でヤマハは、“そこ”でとどめちゃったんですかね?(笑)
----わかんない、ですけどね(笑)。
林 スズキも、だって、出て行きましたからね。スズライトで。
----日本楽器だからかなあ?……って若干、意味不明だけど(笑)。
林 50年代、60年代には、四輪を“作ってみました”的なメーカーだって、いっぱいあったのにね。フライング・フェザーやフジ・キャビン、くろがねベビーやコニー・グッピー、ミカサ・スポーツってのもあったような気がする。
----ヤマハですごいのは、そういう試作的なモノすらやらなかったこと。まあ、浜松の工場の中庭には、実はいろんな“残骸”がコロがっていたのかもしれないけど(笑)。
林 でも、見せなかったよね、一切。その種の気配すら。……というか、60年代の前半に、いち早く四輪の大メーカーと付き合って、むしろそっちに勝算を見出したんでしょうね。
----ヤマハは、あのマークを見てもわかるように──
林 マークって? あの三つ葉みたいな?
----うん、あれは「音叉」なんですね。もともと楽器屋さんだから、木工の技術には長けていて、そこでピアノやギターね。そして戦時中は、軍需工場として、航空機のプロペラを作ってたようで。
林 ふうん、木でプロペラを?
----木でも作ったかもしれないですけど(笑)金属プロペラ。要するに、そのへんの精密加工技術にすぐれていた。
林 じゃ、クルマのボディも緻密な曲線のやつを作って、カロッツェリアになればよかったのにね(笑)。
----“ヤマハ発”つまりヤマハ発動機でバイクなどを作って、一方で日本楽器というのもあるから。これ、もう社名は「ヤマハ」になってるのかな。こっちが音楽ソフトや映像なんかも含む、超ビッグ・ビジネスになってるとすれば、機械モノをやる“発動機”は、ある程度の限定範囲で……。
林 でも、それは“いま”の話でしょ? 50年代から60年代、何をやってもよかったという時期に、四輪についてはエンジンだけって……。
----ねえ! あの時代に、よく範囲を決めましたよね。この会社、やっぱり“二輪屋”だったからかなあ?
林 というと?
----いや、二輪の世界で、これはまあ50年代のハナシというかジョークですけど、“サンダイ・メーカー”というのがあったそうで。
林 うん、ドコとドコとで、みたいに?
----それは“三大”ね。そうじゃなくて“三台”。バイクを何とか作ってみるんだけど、三台作るとツブレちゃう(笑)。
林 会社が? ハハハ(笑)。
----二輪屋としてそういうのを見ていて、その分慎重だったかもしれない。あと、社史的にいうなら、ヤマハが二輪に“来た”というのが、そもそも異業種への参入で。
林 そうですよね。
----その分、社内あるいはグループ内に“成果主義”みたいなところがあったかもしれないですね。
林 それをやると何が手に入るんだ、ハッキリしろと?
----そうです。“ハイ、もう契約は済んでます、コレコレのものがこの会社から、ウチにインカムとして入ります”と、こと四輪がらみでは、この路線に徹した。
林 ……というか、それだけで、十分に忙しかったかもしれないな、ヤマハは。
----ただ、日本楽器=ヤマハというところは、決してコンサバ路線一本の会社じゃないです。ギター販売での北米輸出に向けてのトライも早かったし、そして、そういう輸出戦略も関係していたのか、1970年には、廉価クラスのギターは海外で生産する──これ具体的には台湾工場ですけど、そういう当時としては破天荒なはずの決断をしてるし。
林 フーン……。
----モノつくりに関わる日本のメーカーが、その生産工場を海外に設定する。これ、いまでこそ珍しくないですけど、でも、これを最初にやったところって、ひょっとしたらヤマハだったかもしれなくて。
林 なるほど~。……じゃ、この企画も“サンカイ・レンサイ”にならないように(笑)。
----何とかジュッカイまでは来てるみたいですけどね(笑)。
----さて、この「ファンジオ」の次に来るのが「スカラブF1」なんですけど?
林 そうですね、「ドキュメンタリ・ストーリー」の、これは「マシン篇」ということでしょう。さっきの「ファンジオ」がドライバー篇でね。
----雑誌としては、ここは同系のネタを並べたということで。そしてテーマも、欧州から米国へ。「アメリカ青年の 夢は かなし」。ここ、なぜ“悲し”と漢字にしなかったんですかね?
林 ハハハ、何ボケかましてンですか(笑)。勝手に句読点や空白を入れないでくださいよ。それ「夢儚し」です。
----あ、夢が「儚くも」ということ!? ワハハハ(笑)。……“ココデハキモノヲ”みたいになっちゃったなあ!
林 そこでは履き物を脱ぐだけ。勝手に着ているもの、脱がないでくださいね(笑)。
----いやいや(笑)。……でも、じゃあ、この「スカラブ」は? ちょっと自信失ってきたな。
林 それはダイジョーブ、そういうクルマがあった(笑)。……で、これも“ムカシ話”なの。さっきの「ファンジオ」ものが66年から数えると9年前だったけど、これは50年代後半から60年代初頭にかけての、たった7年前の話。
----その、モスとかファンジオなら、名前はどっかで聞いたことがあるとか反応できたけど、スカラブでは……?
林 まあね、メイシャと言っても、これはどっちかというと“迷う”方だから(笑)。
----あ、“迷車”?(笑)
林 これ、非常に珍しいクルマなんです。そもそも名前からしてね。“スカラブ”って何だと思います?
----あの、英単語としては聞いたことがあるような気がする。あと、古代遺跡をテーマにした少女漫画で見たのかな?
林 え? ヘンな“守備範囲”がありますね(笑)。スカラブとは“馬糞転がし”、つまりコガネムシのことです。一応、古代エジプトの時代では幸運の象徴と言われてたけど。
----あ、そうそう! エジプト、ファラオの時代の。
林 でも、60年代半ばにブームが来たスロットカー・レーシングをやってた人なんかは、このクルマはみんな知ってたと思う。レアもののレーシング・スポーツカーということで。
----コロコロとタマを作りながら動きまわるコガネムシ。それを何と、レーシングカーの名前にした。フーン、これはセンスかもしれないなあ! ……で、ということは、基本はスポーツカーのメーカーであった?
林 いや、スカラブは“メーカー”ではないです。自分たち仲間内で「こんなのに乗りたいから作っちゃおう」って感じだから。スカラブという名の付いたクルマは、世の中で7~8台しかなかったはずなんですね。F1マシーンが3台と、フロントエンジンのスポーツカーが3台と、そしてスロットカーのモデルになったミッドシップのスポーツカーなどで。
----え、そうやって“数え切れる”世界?
林 そう、そんな数。だけど、いまもって熱狂的な支持者がいて、50年経った今日でも、ヒストリックカー・レースで元気に走ってます。
----小規模ながらもカー・メーカーとか、そういう風に考えてはいけないんだな。
林 だから「シャパラル」の先駆みたいなものですよ。
----この記事のトップで写真になってるコレは、じゃレーシングカー?
林 F1ですね、フロントエンジンです。スカラブというのは、58年にアメリカで、ランス・リベントロウという大金持ちの息子がレーシング・スポーツカーを作って、大活躍をした。
----米国内で?
林 そう。それで、次はヨーロッパに行ってF1を牛耳ってやろうとして、アメリカ人のエンジニアたちを巻き込んでF1マシーンを作ったんだけど──。
----うん?
林 ただ、(F1車を)作るのに、一年余計に時間がかかっちゃったもんだから、クルマができあがってみたら、世の中のF1はもうフロントエンジンではなくなっていて、時代遅れも甚だしく(笑)。
----お、笑っちゃったけど(笑)。でも、その種のタイミングって、人智を超えたものがあったりしてむずかしいですよね。それが歴史でもありますけど。
林 1960年に(F1に)デビューしてみたら、このクルマ以外はみんなミッドシップだった。だから、まるで勝てないよね。勝ちもしないし、予選も通ったり通らなかったりで。
----そうかぁ。
林 でも、メカニズム的には、非常に魅力的なクルマだったのと、それと、ここにも書いてあるように、アメリカのドラ息子がね(笑)。好き勝手やって、カネを使いまくった挙げ句に、“あ~あ……”って言ってレース界からパッと身を退いたとき、まだ、25(歳)くらいなの。
----それはまた、メチャ早い“引退”ですね。
林 そして、72年に、自家用セスナの墜落事故で死んじゃうんですよ、このリベントロウさんは。
----おお~!
林 それで、この人は、アメリカのウールワース・デパートチェーンの跡取りなんだそうです。20世紀初頭、ニューヨークの超高層ビルと言ったらウールワース・ビルと言われたくらいの大金持ち。そのウールワースさんの曾孫になるのかな。
----この記事にも「百万長者バーバラ・ハットンの息子」と書いてありますね。でも、何で苗字が違うんだ?
林 あ、それも話せば長い事柄で……(笑)。
----「バーバラ」だから女性よね。あ、そうか、結婚して姓が変わったお母さんということか。
林 このお母さんが、何度も結婚/離婚をしていて。財産目当てのそういう争いに巻き込まれて……。俳優のケイリー・グラントも、一時期、彼女の旦那だったのかな。
----ふうん……。
林 息子は、カネはあるんだけど、でも不幸せな青春を送って、その情熱を全部レースに向けちゃう(笑)。……で、どうでもいい話で、でもぼくはすごく魅力を感じるんだけど、(俳優の)ジェームス・ディーンが55年に交通事故で死んじゃいますが、その最後の日に会ってるんですよ、ジミーは。このランス・リベントロウと──。そういうつながりのある(アメリカ)西海岸のドラ息子の一派というか。
----ディーンとはお友だちだった?
林 そう。
----じゃあ、彼の“棺桶”になることになる“あのポルシェ・スパイダー”にも、ランスくんは乗ったことがあるのかな?
林 そこまで言うと、ハナシを作っちゃうことになるけど(笑)。正確には、リベントロウ自身はそのポルシェには乗ったことはない。……あ、この話、します?
----ええ、ぜひ!
林 その日、ポルシェ550スパイダーを初めて手にしたジミーは、その週末に行なわれる、そして彼にとっては久々でもあるレース出場に向けて、ハイウェイで慣らし運転を兼ねて走っていた。そのクルマでレースに出るので。そしてその道すがら、傍らの店の駐車場に、見覚えのある「300SL」が止まっているのを発見する。それが──
----いつもの仲間のメルセデスだった?
林 そうです。ジミーはポルシェを停め、レース仲間のブルース・ケスラー、300SLは彼のクルマだったけど、そのケスラーやリベントロウたちと談笑して、「じゃ、60マイルほど先にある店で、一緒に晩飯を食おうぜ!」と別れた。
----あ……!
林 惨事は、その1時間後に起きた。だからリベントロウは、ジミーのポルシェ・スパイダーには乗っていない。
----うーん……。
林 でも、ジェームス・ディーンがもう少し長生きしてたら、リベントロウの、この「スカラブ・プロジェクト」に“噛んでた”かもしれない。
----そういったようなことは、この記事にはもちろん?
林 ……書かれてなくて(笑)。
----これ、ひたすら“メカ記事”ですもんね。エンジンのバルブはデスモドローミックだとか、それはベンツのF1と同じだったとか。さらに、シャシーやブレーキも頑張ってたみたいだけど。
林 ちなみに、そういうスカラブっていうクルマを作ったエンジニアたちがいるんですけど、その人たちは、スカラブ・プロジェクトがなくなって、一瞬、宙ぶらりんになる。でも、そのメンバーが“ある人”に、また雇われる。
----ほお?
林 そして、新たな高性能レーシング・スポーツカーを作り始めるんだけど、誰に声をかけられたかというと──
----パラパラとページがめくられ、現われたのは91ページですが……。え、この人?
林 そう。テンガロン・ハットをかぶったテキサン、ジム・ホール。
----おお~、“明日のココロ”がまた出て来てしまいましたが(笑)。でも「シャパラル」の話を始めちゃうと、これは“終わらない”よね?
林 ハハハ(笑)。
----小沢昭一さんにも触れず(笑)、“明日のココロ”もまた予告篇状態のまま推移してしまいそうですが。でもジム・ホールも、そんなドラ息子たちのひとりではあった?
林 まあね(笑)。でも、われわれ“貧乏人の僻み”ってやつで、お金持ちのことをそう呼びますが。でも、彼ら欧米のお金持ちのそのレベルたるや、日本人にはちょっと想像がつかないものがあって。
----うんうん!
林 そういう“彼ら”が夢を追いかけたおかげで、たとえば、伝説的なレーシングカーが生まれたり、個人の敷地内にサーキットができたりした。自動車レースの歴史は、とくに初期においては、お金持ちの放蕩によって発展したという事実を忘れちゃいけないです。
----たしかに、ね……。それと、ジム・ホールにしても、そして今回のリベントロウ氏にしても、同じ散財をするにしても、欧米の金持ちって“粋だよな!”という感はあります。ちょっと悔しいけど。ここで何で悔しがってるのかは、自分でもよくわかんないですが(笑)。……あと、この二人ってともに、何というか“欧州志向”がありませんか?
林 そうですね。アメリカのレースって、ひたすらオーバルで、インディカーやストックカーみたいにね。そこでバトルを!という歴史が“濃い”んだけど、一方でダン・ガーニーにしても、このランス・リベントロウにしても、ヨーロッパのレース・シーンに憧れを持っちゃって……という活動をした人たちが厳然と存在します。
----フム。
林 それは1950年代後半になって、西海岸に「ラグナ・セカ」とか「リバーサイド」といったヨーロッパ・タイプのいいロードコースができたのがキッカケかな。アメリカのスポーツカー・レースの歴史って、すごく魅力的ですよ、プロ、アマ、入り乱れてね。ヨーロッパ以上におもしろいです。
----この記事でも、「スカラブ」のヨーロッパへの挑戦が描かれていますね。1960年のF1モナコ・グランプリに始まって?
林 戦績が書いてあるけど、かなり苦戦してますよね。詳しくは、電子書籍で読んでいただくとして。
----そのキャリアの最終戦となるアメリカGPで。あ、これはF1なんですね?
林 そうです、F1です。
----そのGPで、チャック・ダイのドライブにより10位。これがスカラブの、唯一のリザルトということになるのかな。その後、スカラブあるいはランス・リベントロウは、ブルース・マクラーレンやフランク・ウィリアムズのような、コンストラクターの道という選択肢を採ることはなく?
林 青年ランスは、何よりも運転が好きだった。そして、ミスター・リベントロウは、レース屋としての人生を歩むには、あまりにも──
----オカネモチであり過ぎた?(笑)
林 2.5リッターF1最後の一戦、つまり60年アメリカGPで10位だったスカラブと、1.5リッターF1最後の一戦(65年メキシコGP)で初優勝したホンダとでは、“その後”は、おのずと変わるというものだったでしょう。
----ウーン、「アメリカ青年の儚い夢」。それはおそらくランス自身の手によって閉じられた……。
林 当時、『カーグラ』その他でも、スカラブを記事にしたものはありませんでした。だから『オートスポーツ』の“月刊1号”で、スカラブF1を採り上げた大胆さは評価したいですね。ほんとはこの記事でも、リベントロウの生い立ちなどにもっと触れてほしかったですけど。でも、技術記事に終始しているのは、逆に技術屋の目から見ても、スカラブは採り上げたいクルマだったのだという証でしょうね。
----文末に、この記事の書き手、高橋義雄氏の立場が記されています。いすゞ自動車勤務、と。
----期せずして、スターリング・モスの「時評」につづくページには、話題になっていた「ファンジオ」が登場します。
林 「名レース物語」ですね。
----ドライバー「ファンジオ」が、1957年のドイツ・グランプリをどのように闘ったのかという──。
林 ニュルブルクリンクでのレースですね。今日のF1がグランプリで走ってるコースは近年に新設されたものなので、ここでステージになっているのは、いわゆる“ノルドシュライフェ”と呼ばれているオールドコースの方です。<
----あの“山あり谷あり”の方ですよね(笑)。アップダウンとブラインド・コーナーだらけで、こんな「峠」みたいなところを、よくF1が走ったものだと思いますけど。……で、まずお聞きしますが、「ファンジオ」というのはべつにアダ名ではないんですよね?(笑)サッカーでは、ジーコとかペレとか、本名以外の名前を持っているプレーヤーがいますけど。
林 もちろん本名で、ファミリー・ネームがファンジオ。フルネームで呼ばれる機会が少なかったのは、「Juan Manuel」をどう読んだらいいのかわからなかったからじゃないですかね。
----この記事の末尾には「ジュアン・マニュエル」とありますが?
林 英語読みすると、そうなりますね。でも、アルゼンチンはスペイン語だから「フアン・マヌエル」、「ファン」じゃなくてね。姓の「Fangio」も、スペイン語読みすると「ファンヒオ」なのかもしれないけど。ただ、もともとイタリア系の人なので、これは「ファンジオ」でいいのではないかな。
----なるほど。外国人の名前をどう読むかというのは、日本語メディアのムカシからの悩みだと思いますが、とくにカー雑誌では、車名も含めて、そのへんの論議はしばしばホットでありました(笑)。
林 レーシング・ドライバーでいうと、クラーク、サーティース、ガーニー、スチュワートといった人たちは、フルネームであまり呼ばなかった。ただ、ヒルは、グレアム・ヒルとフィル・ヒルを区別するために、フルネームで呼んだかな。モスが大抵「スターリング・モス」とフルネームなのは、いきなり「モス」という単語が出てきたのでは、人名なのか「燃す」なのか「模す」なのか、はたまた「モスバーガー」なのか……(笑)
----ハハ(笑)、60年代には「モスバーガー」はなかったでしょ?(笑)
林 そうか(笑)。……まあ、そんなわけで、モスはフルネームで、ファンジオは「ファンジオ」として書かれることが多かった。
----でも、このページ、おもしろかったな!
林 ぼくは、こういうのが好きだったけど、でも、いま(のレース雑誌に)はないよね。(当時は)ネタがなくて、こういうのを入れたのかもしれないけど(笑)。こういう“ウンチクもの”というか、こういうのがあっての「雑誌」だったと思う。
----雑誌を編集する側が、コレコレについてはどうしても採り上げたい、読者にはこういうことを知ってほしいとか、そういう作る側の熱意みたいなものが、ムカシはけっこう剥き出しになってた気がします。これは“上から”とか、そういうことじゃなくてね。
林 これ、66年の時点で、57年のレースを採り上げてる。つまり、9年前のレースが書かれてるわけですよ。でも、クルマがフロント・エンジンと葉巻き型のミッドシップでは全然違うし、ドライバーのラインナップも変わっている。主役はファンジオだし。
----ええ。
林 だから、すごく大昔の話を読んでるような気がするけど──。
----実は「9年」しか?
林 これを、いまの時代にスライドさせて、2012年で「9年前」の話をしても、つい、こないだのような、おんなじ話になっちゃって(笑)。
----ああ、そうかもしれないですね。
林 それで考えても、技術的にも、当時は、時の流れが早く動いてたということだと思うんですね。選手にしても、次々と逝ってしまっていたということもあるし。それが50年代であり60年代なんだなあと思います。
----そんな1950年代、これはその「ファンジオ」を主役にした物語ですが、どんな“名勝負”の設定かというと、まずファンジオはマセラーティに乗っている。そして、ここニュルブルクリンクで、そのライバルとなりそうなのはフェラーリの2台である。
林 そのフェラーリのドライバーは、マイク・ホーソーンとピーター・コリンズ。ちなみにスターリング・モスもこのレースに出ていて、「ヴァンウォール」というクルマに乗ってるんだけど、このレースでは優勝は望めないであろうという状況。
----練習時からファンジオは好タイムを出していたが、その速いタイムが出るセッティングとは、クルマが軽量である場合のみという限定付きで……。
林 燃料を半分しか積まないときね。
----そして、ヒーローにはもうひとつ“試練”があって(笑)、それはファンジオのタイヤがレース・ディスタンスは保たないということ。つまり彼は、レース中にタイヤ交換をしなければならない。対して、ライバルであるフェラーリのタイヤは、無交換でフィニッシュまで行ける……。
林 はい。
----ドイツ・グランプリ、季節は8月。一周14マイル(22.4㎞)の“オールド・コース”を22周する、総距離312マイル(499.2㎞)のレースということなんですが、あれ? 当時のF1レースって、こんな長距離を走ったの?
林 そうですよ。当時は、400km、500kmを走るなんてザラ。それを、基本的にひとりで走るんだから。
----はあ、当然、チームラジオなんかないし?
林 もちろん。ピットとの無線交信なんてあるわけもなく、サインボードだけを頼りに、自分の頭で考えながら闘う。いまの日本の“スーパーGT”が300kmを二人交代でなんて、甘えるんじゃないと言いたい(笑)。
----ウーン!
林 近年のF1──と言っても、もう30年くらい経つけど、F1GPはレース距離305km、または2時間で終了と規則で決まってます。TVの放映枠があるので、500kmとか3~4時間を走ってることは許されない。
----嗚呼、TVがルールを変えちゃったスポーツ! バレーボールなんかそうだけど、フォーミュラ・ワンもそのひとつだったか……。
林 今後、人間がもっとせっかちになったり、TVの放映権料が高騰したりすると、レース距離150km、放映は1時間てことになるかもしれない。
----ウム、あり得るな。
林 あと、ちょっと“重箱の隅”をつつくと、この号の記述がマイル表示をベースにしてるということは、この記事は英語の資料を見て書いてますね。でも、ヨーロッパ大陸の国々はもともと「km表示」で、ニュルブルクリングのあのコースは、当時ずっと「22.81km」で知られていた。それを22周すると501.82kmとなり、500km超ですよ。
----うわぁ!
林 きっと、いまの若い人は「だってスピードが遅いから、楽だったでしょ」と言うだろうけど、あんな危険なコースを、ね。
----そうそう!
林 いまと違って、シートベルトも耐火服もなく、そして、細くてズルズル滑るタイヤで限界まで攻め、そして、エンジンの搭載位置は“前”ですからね。そのエンジンから来る熱気に耐えながら、真夏に3時間も4時間も走る。
----凄いよなあ! ……と、絶句してると話が先に進まないので(笑)、この記事に戻りますが、このレースでファンジオが選択した作戦は、速いタイムが出せる“ハーフ・タンク状態”で走り、そして、レースの半ばに給油とタイヤ交換を行なうということ。ただし、そのピットストップにはおよそ「1分」という時間を要する。実際のレースでも、ファンジオは3周目からトップで走行して、12周目にピットインしますが、そのピット作業に要した時間は「56秒」だった。
林 それがタイトルになっていて、名レース物語「失われた56秒への賭け」。
----彼がピットアウトしたときには、周回を続けていたフェラーリの二台は、もちろん先行していた。残るレースは10ラップ、さあ、どうなる?
林 ……という物語です、はい。
----こういう、レースの“勝ち負け”っていうのが、いったいどうやって決まっているのかということがわかるようなハナシって、いいなと思いました。
林 この原稿を書いた人は、まるで見てきたような感じで書いてるけど、現場にいたわけではないよね(笑)。
----外誌なんかから、ネタは引っ張ってるんだと思いますけどね。
林 描写がなかなかね(笑)。「ちくしょう、やっぱりフェラーリの連中、最初から勝負に出てきやがった」……。
----「それにしても、ヤッコさんらヤケに走りやがる」(笑)小説風、読み物調といえば、まあ、そうなんだけど。
林 いや、この芝居がかった脚色こそがスポーツ・ドキュメントの原点でしょう(笑)。ぼくは、2012年のF1GPレポートがこの“ノリ”で書かれたのを、ぜひ読んでみたい。……で、最後にファンジオがこう語るのよ、「私は、二度とこんなドライビングはできないだろう。どんなトロフィーがかかり、どんなタイトルがかかっていても……」
----拍手~!(笑)。----で、それに続くリザルトのところが、あらためて凄いです。「1位、ジュアン・マニュアル・ファンジオ」と英語読み、そして、そのタイムというか走行時間が記してあって「3時間30分38秒3」!
林 50年代でしたねえ(笑)。
----ところで、ファンジオの凄さというか、彼が伝説になった、その理由というのは?
林 それは、語りはじめると、本一冊、いや二冊分くらいになるから(笑)。
----そこを、じゃあ“1分”で!(笑)
林 それはムリ(笑)……ウーン、まず、沈着冷静、頭脳明晰、怒ったり殴ったりということがなかった人。走りもきれい、常にフェア、ときに後輩思いだった。そして、基本的にめちゃくちゃ速かった。ミスが非常に少なかった。ライバルたちと比べて高年齢で、というか、1950年代前半は戦前派の選手も多かったので、全体的にドライバーが現代より高齢ではあったけど、初渡欧が37歳だったから──。
----生まれはアルゼンチンなんですよね?
林 ええ。ファンジオは、大器晩成型だったのかもしれない。ともかく、人間的に「おとな」でありました。その勝ち方も、ね。
----勝ち方?
林 うん、ファンジオの闘い方は「いかに楽に勝つか」というもの。……で、チェッカー時に、相手より1センチでも先行していればいいという考え方。よって、トップで走行してるときにはマシーンをセーブし、無用なトラブルを避けました。言い換えれば、相手の出方次第で、どのようにも対応できる実力があったということ。50年代には猪突猛進型ドライバーが多くて、その方が、見る側からは魅力的だったけど、その点、ファンジオのトップ走行時は実にツマラナイものだった……と、見てきたように言うが(笑)。あれ、もう“1分”経ったんじゃない?
----いえ、まだ“20秒”しか経ってません、どうぞ!(笑)
林 ハハハ(笑)、……で、偉いのは、今回の57年ドイツGPのように、逆境時には限界まで攻めることも可能な点で、これができるか否かで、ドライバーの評価は大きく変わるのですなぁ。
----そういえば、このドイツ・グランプリのときのファンジオは46歳であった?
林 そうです、そして、翌年のフランスGPをもって引退しますね。
----フーン、これは、彼のそんな時期のドキュメントでもあるのか。
林 あと、スターリング・モスは“エンターテイナー”なので、楽勝が予想されるレースなどでは、スタートで出遅れて──これは“わざと”説もあるけど。そして、そこから追い上げて優勝、拍手パチパチ……なんていうレースが何度もある。でも、ファンジオはそういうことはしない。
----おお! この二人は、時代的にはほぼ同じ?
林 当時の日本での報道では、ファンジオとモスは、まさに同時代を生きた人。ただ、年齢的には18歳もの差があった。F1もスポーツカーも同じように重視された50~60年代では、一人前のレーサーは、どちらにも参戦して活躍したけど、どちらかと言えば、ファンジオはF1で、モスはスポーツカーで、それぞれの真価を発揮した。
----ははあ!
林 定まったコースを毎周毎周、寸分の違いもなく正確に疾走するという能力では、ファンジオの右に出る者はなく、一方、一般公道を走ったり、周回遅れを掻き分けながら走るスポーツカー・レースでは、臨機応変な走り、瞬発的な判断力といった動物的感覚も必要で、これはモスの独壇場だった。ファンジオとモスがメルセデス・ベンツでチームメイトだった1955年の各レースを精査すると、そのことがよくわかります。
----なるほど、単なるライバル関係ではなかったんですね。
林 そう、競い合ってたけど、決してケンカの相手ではなかった。50年代前半時点でのファンジオの好敵手はアルベルト・アスカーリだったけど、その彼が55年に事故死してしまうと、モスだけがファンジオに比肩し得た。ファンジオとモスの間には、生涯、親密な師弟関係があったのです。
----あ、そろそろ“1分”かも?(笑)
林 フフフ(笑)。もっとも、ファンジオが58年に引退するときに、「次代の後継者は?」と問われて、みんなてっきりモスの名前が挙がると思いきや、別の選手の名前が出たとか、そんなこともありましたけど。……はい、タイムアップですね?(笑)
----ええ、ありがとうございました(笑)。
----さて55ページですが、ここからは、印刷用語でいうところの「活版」のページとなります。
林 活版ですねえ……。
----懐かしいですか?
林 ……というか、昔は“カラー口絵”は貴重だったし、グラビアもオフセットもちょっぴりしかなくて、雑誌はどれも、読み物向けの活版ページが主体でしたよね。『モーターファン』も『モーターマガジン』も『ドライバー』も『月刊自家用車』も、B5判の分厚い自動車一般誌はみんなそうでした。
----そうですね、いま挙がった雑誌のうちの一つには、実は関わってたりしましたが。
林 ぼく自身は活版に愛着があります。18歳でこの仕事を始めた当時は、まだ雑誌の巻末には活版ページがあって、その担当をしていたから、作業手順は今でも覚えてる。
----うん、編集の新人は、グラビアとかオフセットのページはやらせてもらえませんでした(笑)。
林 活版って簡単に言えば、職人さんが片手に木枠を持って、原稿を見つつ、そこに小さな文字のハンコを選びながら組んでいって、ギュッてハンコを押すように印刷するという、昔ながらの印刷方法でね。
----活字というハンコで“押される”から、紙のうちの“字がある部分”が凹んでるんですよね。
林 そう、出来上がった本のページを指でさすると、裏側の字の凹凸が透けてわかる。
----深夜の印刷所の工場に行ったこともあります、仕事が遅かったので(笑)。工場まで出向いてというか、工場側から呼び出されて──。活字を拾って組むという作業をされてる職人さんから「これでいいのか」とか言われてました、私……。
林 活版には、人のワザとか温かみが感じられる気がする。印刷屋の出張校正室で過ごす校了日が、ぼくは嫌いではなかった……というより好きだったですね。
----活版は、いまは?
林 活版が、グラビアやオフセット用の「写植」(写真植字)に次第に変わっていって、それも、手動機から電算写植機に変わっていってという中で、急激に衰退した挙句に、ほぼ消滅してしまいました。そして、いまではその写植すらなく、DTPというシステムですね。
----さて、その活字が並んだページのトップを飾る人物として、「スターリング・モス」が登場します。記事は「本紙特約! スターリング・モスのスポーツ時評」。あの、モスさんって当時、こんなに、何というか有名人だったのでしょうか?
林 スターですよ!
----あの、一般的にもそうでしたか? 知ってたのは林さんだけだったのでは?(笑)
林 いや、メディアが作った(虚像的な)部分がなくはないけど……。えーと、このときは、(彼は)1929年生まれで36歳か。スターリング・モスは、この60年代半ばの時点では一世代前ともいえる過去のレーシング・ドライバー。だから(英人ドライバーとしては)ジム・クラークの先輩くらいにあたる世代の人なんですけど。
----サーキット上で活躍したのは1950年代?
林 その50年代、「ファンジオ」っていうのが連続チャンピオンになっていたときに、常に(モスはファンジオに続いて)2位、3位にいて。でも、たまに(ファンジオを)負かす!……みたいな、そういうドライバーでした。
----その「ファンジオ」というのも、伝説のドライバーですよね。
林 だから(モスは)“無冠の帝王”といわれてた人なんですね。だけど、32歳で、イギリスのグッドウッドで大事故を起こして、現役を去っちゃった。そのとき大怪我をしていなければ、60年代が“モスの時代”になっていた可能性は大いにある。
----当時の読者としては、モスは“憧れの人”だった?
林 ……というか、ビッグネームであったよね。
----じゃ雑誌をめくって行って、あ、スターリング・モスがここに!……というのは喜びであった?
林 だって、こうやって「本誌特約!」ってビックリマークが付いちゃうと、注目せざるを得ないじゃない? 読者としては(笑)。
----そうか、メディア上で大きく扱われてるし?
林 そう。あ、スターリング・モスって聞いたことあるぞ、あ、その人に書かせてるんだって。
----この人って、当時の自動車雑誌、たとえば『カーグラ』などでも人気だったんでしょうかね?
林 そういう意味でいうと、ぼくが本(やクルマ雑誌)を読み出した頃っていうのかな、60年代の半ばに、ホンダF1が出て来て……というときには、スターリング・モスは、もう(レーシング・シーンには)いないわけですよ。
──うん……。
林 66年の『カーグラ』の2月号で、「1.5リッター時代F1 5年間の回顧」というのをエンエンとやっています。それを見ると、ジム・クラークとかグレアム・ヒルとかジョン・サーティーズがトップ争いをしているのも出てるし──。
----スターリング・モスじゃなくてね?
林 そういう(クラークらが活躍した時代の)直前に、つまり、ジム・クラークが(表舞台に)出始める前年の61年まで、スターリング・モスというのがジム・クラークなんかを負かして、勝ってるわけ。それが、62年の春に、ポンといなくなっちゃうんですよ。消えちゃう! ……で、(報道記事などを)読むと、大事故を起こして引退したんだとわかる。
----おお!
林 そこまで詳しく知らない時期でも、スターリング・モスって、ここ(クラーク以上のレベル)まで頑張っていたけど、やめちゃった人なんだ……くらいには思ってたし。事故に遭わなければ、チャンピオンを取ってただろうなと、そのくらいの知識はあった。だから、『カーグラ』の回顧記事にしても、そういうレベルで「スターリング・モス」を語ってるから、すでにビッグネームであったし、もっと言えば、この時点で、もう伝説的な名前になってたかもしれないですね。
----なるほど。
林 だから“巧い”よね。いいときにやめてる、というか(笑)。
----え、だって、事故でしょ? 退場せざるを得なかったのでは?
林 でも、九死に一生を得たんだから。とにかく50~60年代のレースは、死亡率が高かった。五体満足で辞められた者の方が少ないくらい。
----ははあ……。
林 モスは大事故からちょうど一年後にF1マシンでテスト走行してみて、「もう以前と同じには走れない」と直感して現役引退を表明した。でも、その後も世界中いろんな場所に招かれて走ると、相変わらず、途方もなく巧くて速い。それでも本人の中では、62年の事故と63年の試走を経て、一旦完全に線を引いてる。潔いというか、プロというか、この一件だけでもファンを唸らせるよね。
----そうですね。どう“引く”かというのは、第一線にいた人ほど、その判断はむずかしいはずだから。……で、現在の若い読者にわかるような例で言うとすると、「モス」って誰に近い感じなんでしょうか?
林 誰だろう? ……いまだに、イギリス人にしてみれば「スターリング・モス」はナイジェル・マンセルよりはるかに“ビッグ”だし。“無冠の帝王”ではあったけれど、だからこそ応援するというのは(どこの国でも)ありますから。今日でも、イギリスでは、モスが来た!となれば人は集まる。2000年には「サー」の称号を与えられた。VIPですよ、年はもう80(歳)だけど。
----新装の『オートスポーツ』誌としては、そういうドライバーというか書き手を、ほら、ちゃんと確保しましたよ、という宣言も兼ねて、ここで?
林 おそらく、そうでしょうね。それと、この彼の「スポーツ時評」というのは、この“月刊1号”が最初ということではないので。
----あ、そうなんですね?
林 『オートスポーツ』誌がこのサイズになる前、まだB5判だった季刊時代の65年・春号かな、そのときから、彼の連載は始まっている。
----この「“オートスポーツ”のすべての読者へ……」ウンヌンという、自身の写真に噛ませたサインは、この号のために書いてますよね?
林 編集部としても、読みもの記事の目玉として考えていたからでしょう。あらためて、モスさんの連載、これからも続けるぞ、という……。それと、そういう“対日本”ということでは、富士スピードウェイが“アメリカン・サーキット”みたいになろうとしていたときに、スターリング・モスを呼んだ。そして(設計図などを)見せたらば、「こんなのじゃダメだよ!」って(モスが)言って、それでヘアピン・コーナーができたりした。そういうアドバイザーもやってたから、日本での知名度もありましたね。
----なるほど。
林 それと、モスさんって、のちの“プロF1ドライバー”の先駆というか、そういう存在でもあった。(彼には、個人)マネジャーも、たぶんいたし、事務所も持ってた。そういう、メディアに対応するシステムを持ってる人だったですね。同じドライバーでも、ジム・クラークなんかは、そういうの、一切やらなかったから。
----だから、こういう原稿も引き受けることができた?
林 ええ、ゴースト・ライターもちゃんといたと思いますよ。あ、でも、本人が書いたかなあ? 喋りはとても巧み、いわゆる“立て板に水”の人なので。だから、ウーン……、いや、やっぱり書いてないだろうな(笑)。
林 ああ、これこれ! 36ページにあるのが、そのレプコ・ブラバムと違って、“壊れちゃう”(笑)フェラーリF1!
----このへんはF1関連の記事が続いてるんですね、レプコ・ブラバムのあとはフェラーリ関連で。あれ、ここに「昨シーズンのフェラーリはまったく振るわなかった」とありますよ。
林 それが65年。やっぱりフェラーリは“パワー優先”なので、12気筒のエンジンでね。だから、速いときは速いんだけど、ときには、あるいはしばしば(笑)モロかった。……で、66年もそうなのよ。
----この記事によれば、65年のその不振の原因として、「すでに66年からの3リッター・ニュー・フォーミュラを目標にしていたのだ、ともいえるだろう」と、勝手に憶測してというか、懸命に持ち上げてますけど(笑)。
林 ちなみに『グラン・プリ』っていう映画があって、三船敏郎も出てるんだけど、ジョン・フランケンハイマー監督でね。この映画は、66年のF1に帯同して撮影しているから、このクルマ(フェラーリF1)なんかも、実際に走っている映像がある。
----お! それはレンタルDVDショップで見た。“良作発掘”みたいなコーナーにあったな! 林 (映画の)ストーリーは、フェラーリのエース・ドライバー、これはイブ・モンタンがやってるんだけど、彼がシーズン途中でエンツォ・フェラーリと(感情的に)こじれたりとか。これは、実話なんだけどね、ジョン・サーティーズをモデルにしていて──。この映画が封切りされたのは、67年のアタマだったですけどね。
----へええ、借りてみようかなっ!
林 つづいて、これが……。
----タイトルが「フォーミュラ・カーをつくる」。これ、この頃、自分で作ってみた人がいたわけですね?
林 このネタでの注目は、フォーミュラを“作りたかった”守屋清太郎さんといういすゞ系のドライバーに、実際に「モスター」というクルマを一緒に作ってあげたのが、のちの……じゃないか、このときから「鈴木板金」だから。つまり、以後のレース界で、関東随一のコンストラクターとして活躍することになる鈴木板金であったということ。この会社は、いすゞとか三菱ともコンタクトがあって、モーターショーに出すショーモデルの製作なんかも請け負っていた。
----じゃ“一品製作”ものは?
林 ウン! スペシャル・マシンを作ることにかけては、十分なキャリアがあった会社です。レースとの絡みでいうと、のちに「ベルコ」という名のレーシング・カーを製作・販売することになるのが、この鈴木板金なのでありました。……でも、ここに載ってるクルマは、けっこう“手作り感”炸裂ですけどね(笑)。
----次が、「フェアレディのスポーツキットとチューン・アップ」。
林 ぼくなんかは、こういうのは読みとばしていたというか、もう少し正確にいえば、当時はまったく読まなかったですね(笑)。
----この写真は、フロアがフェアレディだらけですけど、ニッサンのどこかのファクトリーですかね?
林 “大森”でしょう、おそらく。だから、いまのニスモですよ。
----この「表」(45ページ)によると、ロールバーの価格が8000円で、工賃が5000円。ハードトップは、工賃ナシの8万5000円で装着できて、その「目的及び用途」は「空気抵抗低減、スタイル、保温、安全性」だそうで。
林 ラストに「レーシング・チューン」のリストもあるような。
----キャブレターは、ウエーバー2個が6万円、44ミリ径のソレックス・タイプ、ミクニ製が3万円、工賃は別途と……。
林 ……で、次のページに行くと、ジャーン! お待たせしました、フェラーリの「P3 プロトタイプ」。
----これは当時は、やっぱりビッグニュースだった?
林 ……というか、毎年、こうしてフェラーリの新型は出るんですけど。でも日本では、前の年にしても、(メディア上では)まったく報道されてないから。だから、こういうのを見ると、(フェラーリの新型が)突然現われたようにもなってしまうんですね。「P2」が出たって、どこも書かなかったわけで。この年には「P3」、そして翌年には新型として「P4」になるんですが。
──それが、さっきの話の1967年「デイトナ」ですね。“66年ル・マン”のリベンジとして、フェラーリがバンクで“編隊飛行”した?
林 これ(P3)はまあ、カッコいいなあとは思った。「P2」とは全然違うなあ、と。でも、ある“レース好き”は──もちろん“クルマ好き”なんだけど、それ以上にレースの方がずっと好きな某氏は、このクルマは、レーシングカーという印象がなかった、と語ってましたね。単なる“美しいスポーツカー”でしかなくて……。
----ははあ、“血と汗とオイルの匂い”がしないと?
林 「P2」とか「LM」に較べると、これはひ弱に見えた……とも。
----たしかに、そうかもしれないなぁ……。それにだいたい、この写真は何! だって、なぜかソフト・フォーカスで(笑)、“状況”全体にカスミがかかっていて、そして下は芝生みたいで。そこに静々と“美しすぎる”プロトタイプが登場して──。
林 いや、単に霧だっただけ、その日のマラネロが(笑)。冬のヨーロッパの朝なら、よくあることでは。記事にもあるでしょ、「イタリアの北部マラネロのフェラーリ工場は一面の霧に包まれていた」。
----ちゃんと霧が出るんだよなあ、“美女”のお出ましに際しては(笑)。そして、隣にいるのが、これまた美麗な……。
林 可愛いですよね、「ディノ206S」!
----ジーナ・ロロブリジダが、「このコは、映画になんか出さないわよ」なんて言いながら、自分よりさらに愛くるしい面立ちの、秘蔵の“妹”を連れて出て来たような!
林 何ですか、それ?(笑)
----ファンはヒソカに“ロロ”と呼びならわした、イタリア美人の極致ってこういう顔なんだなあ!という伝説の女優です。伝説と言っても、映画史的に傑作と呼ばれるようなものにはとくに出てないから、そういう意味での伝説じゃない。“ロロ”が凄いのは、この人が出た映画はすべて、この人が出たことによってのみ、価値が生じたというか──。
林 フーン、マリリン・モンローのイタリア版みたいなものかな?
----あ、それはイイ線かも!?(笑)ともかくジーナ・ロロブリジダは、“美貌”がそのまま服を着て──あ、あまり着てなくて薄物だけのときもあったけど(笑)、美貌という概念がそのまま地表を歩いてたようなイタリアの女優。彼女に、妹がいたかどうかは定かではないですけど。
林 ハハハ(笑)。
----あの、“66年デイトナ”では、フォードに「P2」が負けてたようですけど、この「P3」フェラーリは、フォードGTに勝てたんですか?
林 うーん、それは微妙ですね!(笑)……あの、いまみたいに、毎戦必ず(シリーズ戦には)出なければならないという規則はなくて、自分たちが出たいレース、勝ちそうなレースを選んで出るんですね、この頃のチームは。だから、なかなか対戦しないのよ、フェラーリ・ワークスとフォード・ワークスが──。ル・マンでは、ガチン!とやるんだけど。だから、フォードGTがワークスで出てないレースには、フェラーリP3が勝ったりした。
----この記事の見出しも、“フォード・キラー”とはとくに言ってないような?
林 ここの本文では、「新フォード・マーク2やチャパラル2Dに対抗するプロトタイプ・スポーツであり」……とは書かれてる。それと、この時点では、このクルマを“フォードGTキラー”などとフューチャーするほどには、そのフォードGTがまだ強くなってなかったね(笑)。
----そうか!(笑)フォードの“ル・マン編隊飛行”は、まだ先のことで。
林 隣のクルマは、この記事では「ディノ206Sは(略)新2リッターのカレラ・シックスを打ち負かすための50台生産のスポーツカーである」。でも、この「ディノ」は、結局「50台」を生産することはできませんでした。そして、その「カレラ・シックス」には、サーキットではコテンパンにやられてしまいます。
----あー、ポルシェは強かったんだ。
林 マラネロのこの二台のクルマ、“大きな方”も“小さな方”も、どっちも弱いんだけども──というか、そんなに強くはなかったけど、でも「ディノ」なんて、とても可愛いんだよなあ!(笑)
----いや、この二台は、ほんとに美しいと思う!
林 フェラーリの場合、ちょっと前まで──正確には「P1」までは、レーシングカーであってもピニンファリーナのデザインだったから。
----なるほど。コンペティションのためのクルマであっても美的でありたい、と。これは、このファクトリーのDNAなんでしょうね。
林 この翌年、フェラーリ「P4」が出るんですが、全体的なラインは、これとソックリ! でも、ずっと洗練されてる。そして、その「330 P4」ですけど、史上最も美しいレーシング・スポーツを一台挙げなさいと言われると、「P4」を挙げる人が多いですね。
----さっきの映画『グラン・プリ』で走るのは、このクルマ……ではないよね?
林 映画は、テーマがF1。だから、これは走りません! それから、イタリア女優は出ません。ヒロインはエヴァ・マリー・セイント。まあ小学生には“きれいなおばさん”程度にしか見えなかったけど(笑)。ほかに、ジェシカ・ウォルター、フランソワーズ・アルディが共演してます。
林 当時は、この年も、この翌年も、「南アフリカ」が開幕戦なんですけど、南半球って(季節が)“逆”でしょ? だから、12月31日開催とか1月1日開催とか、年によって、最終戦になったり、開幕戦になったりする。ヨーロッパと較べると、まったく離れた国でやってるわけね。……で、この年は(F1が)「新・3リッター」になるときでもあるから、1月に開催しても、ブラバム以外はどこ(のチーム)も新車を用意できないわけですよ。だから“選手権・外”だった。
----あ、なかったわけね、「南ア」(のグランプリ)は?
林 いや、実際には(南アでレースは)やってるんですけどね。それも、南アフリカ国内F1選手権の一環として……なんだけど、これを話し始めるとまた長くなるな(笑)。
----でもそれって、さっきちょっと話に出かかった、南アが、季節が逆な南半球にあるということとも関連してるのでは?
林 おっと、そうでした! じゃあ、手短かに(笑)。南アフリカというのは、70年代半ばまで、国内を転戦する南アF1選手権が存在したくらいの、とってもレースが盛んな地域でね。……というのは、この国が英語圏であるということも大きかったんだけど、英国製の中古F1マシーンの売り先として、この南アやオセアニア、つまりオーストラリアとかニュージーランドといった英語圏の国は、それなりの役割を果たしていた。
----なるほど!
林 もうひとつは、ヨーロッパが冬に入って、レースがシーズンオフになるときに、南半球は夏だった。F1のスタードライバーや家族たちは、ホリデーを兼ねて、南半球の諸国を訪れては、地元のレースに参戦する。こういうことが多かったのね。
----そうか、それでレースに強かったのか、“豪州”は! そういえば“タスマン勢”という言葉も、日本のレース界にありましたね?
林 あ、ソコまで行っちゃいますか?(笑)「タスマン・シリーズ」というのは、毎年の1月から2月に、オーストラリアとニュージーランドで行なわれていた、フォーミュラ・カーの短期集中シリーズ戦です。このシリーズは、1954~60年の2.5リッターエンジンというF1規定が生き残っていたので、66年からF1が3リッターになっても、それに間に合わなかったチームは、その「タスマン」で使っていたエンジンでF1を走った……というのは、話がちょっと逸れ過ぎか?(笑)
----ともかく(笑)、66年1月に「南アフリカGP」は行なわれた。そして、南アのそのレースは、多くのチームは3リッター・エンジンでは走ってなくて、この年の3リッター車によるF1は、5月のモナコが開幕戦になる、と?
林 “公式戦”、“選手権戦”は、ね。
----ン……!?
林 あの、F1グランプリって、いまは全戦に“世界選手権”がかかってますけど、昔は“ノン・チャンピオンシップ戦”というのがあった。言い換えると、選手権がかからない単発イベントの“非・選手権F1戦”というのが存在した。
----あ、1976年だったか、雨の「富士」(スピードウェイ)でやったF1みたいに?
林 いや、あれはイベント名が変だっただけで、ちゃんと選手権がかかった、立派なチャンピオンシップ戦だった。……うーん、どう言ったらいいのかな?
----えーと……、F1の選手権が?
林 あの、ホンダの第二期(F1)活動が1983年にスタートしてるんですけど、「スピリット・ホンダ」っていう──これは「スピリット」というF2シャシーに、ホンダのF1用1.5リッターV6ターボ・エンジンをぶち込んで走ったクルマですが、それが最初に試験的に出るのが、いま言った“非・選手権戦”なんですよ。
----ほう、80年代でも、そういうノン・チャンピオン戦というのがあったのね?
林 奇しくも、いま言ったそのレースが、“非・選手権戦”の最後のレースなんですけどね。83年まで、実はそういうのがあった。ところが、いまのバーニー(エクレストン)さんは、ワン・パックの興行として(F1を)見てるから、“非・選手権”のF1レースがあってほしくない。全部(のグランプリ)が、ちゃんと選手権戦で、そして、それを自分の管理下におきたい。
----ははあ!
林 だから、“非・選手権戦”をどんどん少なくしていった。……で、それが83年をもって、ようやく(すべて)なくなったということなんですけど。だから、逆に言うと、この時代(1966年頃)には、そういう(非・選手権戦の)レースがいっぱいあった。
----そうなんだ……。
林 ……で、とくに、こういう「新・3リッター」だから、各チーム、コンストラクターは、事前に(開幕戦の)モナコ以前に、テストしたいわけです。だから、そういうレースがいくつかあって、それは、当時の『オートスポーツ』も『カーグラフィック』も、時期を見て、やってた(掲載していた)。
----それは、ちゃんと「フォーミュラ・ワン」と称してたわけ?
林 もちろん! だって、F1レース以外の何ものでもないから。ただ、得点、(チャンピオンシップの)ポイントが入らないというだけのこと。もちろん、いまみたいな“全戦出場義務”なんてないから、チームは、出たいレースにだけ出る。各主催者と交渉してね。
----おもしろいなあ!
林 (そういうレースは)春にやるのが多かったですけどね。(英国の)ブランズハッチとかシルバーストンとかで、そういうレースをやる。すると、意外な選手が勝ってみたり、あ、今年はこのチーム、いいのかな、と思わせたり……。あと、新人ドライバーのオーディションという意味合いもあったし。
----そうでしょうね、そういう風にも“使える”はず。その場合、単にテスト走行じゃなくて、レースという形態だったというのは、チームとドライバーの双方にイイコトだっただろうと思えるし。……で、そういうレースは、どのくらいあったんですか?
林 チャンピオンシップ戦は、だいたい10戦くらい。多くて、年に11戦とか13戦とか。……で、ノン・チャンピオンシップが春に2戦、(シーズンの)半ばに二つくらいあるのかな。
----え? シーズン中であっても?
林 ありましたねえ! あと、レース禁止国であるスイスのGPが1975年にフランスのディジョンであって、それには(日本の)“マキF1”が出て、決勝に進出した。これも非選手権戦、つまりノン・チャンピオンシップ戦でした。
----なるほどねえ、あくまで「グランプリ」なんだけど選手権じゃないってか……。うーん、ブランズハッチでの“F1”ね、英国のサーキットが一つだけのはずがないし……ブツブツ……(笑)。
林 どうしました?(笑)
----いや(笑)、欧州の“奥深さ”っていうのかな、それに、ちょっと……。うーん、“F1文化”とかいう言葉はあんまり使いたくないけど、でもラリーなんかも含めてね。自動車というモノを使って“いろんなこと”をする習慣というかカスタムというか、そういうのが“彼の地”には……ブツブツ(笑)
林 あの、(いまの)「世界選手権F1GP」って1950年に始まってますけど、50年に突然始まったわけじゃなくて、47年には、すでにF1レースは行なわれてるわけですよ。だから、たとえばイタリア車が“ゲンキ”であったときには、イタリアでは、それこそ年間に何戦もF1レースをやってる。そこで、フェラーリだのマセラティだのアルファロメオだのが走ってるわけ。
----うん!
林 ……で、50年から、世界選手権戦を始めますよ、一ヵ国一グランプリですよ……ということになったとき、じゃ、モンツァのグランプリは「イタリア・グランプリ」として残そう、と。
……おお!
林 そして、イタリアのあちこちでやっていたF1レースっていうのは、ノン・チャンピオンシップ戦として、引きつづき、やろう! そうして(レースを)やってた。だから、シシリー島でやるF1レースもあれば、どこそこでやるF1レースというのもあって、それぞれに伝統もあるわけ、イタリア的にいえばね。
----それは、イギリスでも、あるいはフランスでも、きっと同じなんだよね。……いや、さっきそんなことに突然気づいて、ブツブツ言ってたんだけど(笑)。
林 だから、フランスならポーでやってたF1グランプリもあるわけで。
----F1の歴史って、マルボロの資料というアンチョコがベースになってるから……って、私のことですが(笑)。だから、多くの場合(選手権戦が始まった)1950年からしか語られないんだよね。
林 (1950年以前を多くの人が)知らないでしょ?(笑)……で、「F1」というタームができたのも戦後(第二次大戦後)だけど、実は戦前にも、グランプリ・レース、グランプリ・フォーミュラというのはあって、ヒトラーの命令でメルセデス・ベンツやアウトウニオンが勝ってたりとか、そういうのは山ほどあるわけですよ。
----ええ。
林 そういう流れ(歴史)を一切アタマから外しちゃうと、“ノン・チャンピオンシップのF1”って何なの? こんなもの、やらなくてもいいんじゃないの……ってなるけど、実は逆で、ノン・チャンピオンシップ戦の中から、世界選手権が派生してきたので──。
----ウンウン! そういう視点というか視座というか……。
林 まあ、どういう風に「見るか」ですけどね。
----いやあ、「レプコ・ブラバム」から、ハナシが随分遠くまで来てしまったなあ!(笑)
林 レプコ・ブラバムに話を戻すと、彼らは早めに3リッター(のエンジンとクルマ)を作って、早めに、ノン・チャンピオンシップ戦に出してるんですよ。だから熟成が進んでいて、そのおかげで、チャンピオンになれたというのもあるし。
----この「レプコ」とは? 「ブラバム」はジャック・ブラバムでしょ?
林 ブラバムさんは、現役レーサーでありながら、コンストラクターも立ち上げて……という人ね。それで、1965年までの1.5リッター時代は、イギリスの「コヴェントリー-クライマックス」というエンジンを買ってきて、それを載せればF1マシンはできあがり!だったんですけど。
----フム!
林 でも、コヴェントリー-クライマックスが、3リッターのF1エンジンは作りませんということになったのね。だから、ロータスもブラバムもクーパーも、そういう、いままでそれを載せてたところは、新たなエンジン供給先を探さなければならなくなった。
----なるほど。
林 ……で、ブラバムさんってオーストラリアの人なので、オーストラリアに「レプコ」っていう、まあ、エンジン屋さんというよりは、エンジン・チューナーなんですけど。
----(後年の例で言うと)“ジャッド”みたいなものかな?
林 あ、そのもの! だから、フォードとかホンダとかいうレベルじゃなくて、街のエンジン屋ですよ。それで、GM製オールズモビルのアルミ・ブロックV8エンジンを使って、独自にチューンをして、F1用に作りあげて、という……。
----フーン!
林 ……で、フェラーリだのBRMだのホンダだのっていうのは、(エンジン屋として)ハイパワーをめざすわけです。彼らが350とか400馬力をめざす中で、ひとり“300(馬力)で、いいじゃん!?”(笑)と。そういう発想で、ひたすら信頼性重視でやったエンジンなんですね、このレプコっていうのは。
----おお……。
林 だから、すごくアンダーパワーなエンジンを、ブラバムさんはプロデュースしたわけなんですが、でも、このときは、それが見事にハマった。だって、レースでは(ほかは)みんな壊れちゃうんだから(笑)。
----でも、レプコ・エンジンは問題なく?
林 そう、ブラバムだけは、ノー・トラブルで完走する!(笑)すごい保守的なんだけど、すごい正解だったという、そういうエンジン。だから、66年、40ン歳のジャック・ブラバムさんがチャンピオンになるんだけど、その翌年も、デニス・ハルムっていう若い弟子が、ちゃんとチャンピオンを取る。67年は、フォードとロータスが共同戦線を敷いて“あのDFV”を出してきて、これは軽量で速いんだけど、まだ不安定だった。だから、フォードが壊れたときにはレプコが勝つという年。そして68年になると「フォード-コスワースDFV」が、以前のコヴェントリー-クライマックスのように、誰でもが買えるエンジンになり、これを積んだクルマには、もうレプコは歯が立たなかった。だから、2年間だけ成功したF1エンジンです。
----この『オートスポーツ』には、もちろん、そこまでは書かれてない(笑)。
林 そりゃそう! これは66年の本ですから(笑)。
----話題は尽きない“66年デイトナ”ですが、その記事以降パラパラとめくっていくと、レースの専門誌ながら、市販車の記事も載ってますね。
林 「テスト・ラン」ですね。その号は、ムスタングGTとホンダの「S800」だそうで。“マスタング”じゃなくてね!(笑)
----フフ、近年ですけど、そういう声を受けてか(笑)、インポーターもこのモデルは車名を「マスタング」にしてるようです。……で、これは要するに、カー雑誌の用語でいえばニュー・モデルの「インプレッション」でしょうか。ただ「S800」の方は、「600」との比較とか、かなり紹介記事に振ってあるような感じもあります。
林 スペックの列記ばっかりという部分もありますよね。
----このへんを見て、フーン、普通の自動車雑誌みたいなこともやってたんだ……と、一瞬思いかけると、でも、その次の記事は「新3L F1の解説 ~ レプコ・ブラバム」で、続いて「新フェラーリF1」の紹介。そして、ここから国内ネタということか、「フォーミュラ・カーをつくる」「フェアレディのスポーツキットとチューン・アップ」と並んでいて……。全然、フツーの(カー)雑誌ではなかったな、やっぱり!(笑)
林 ハハハ(笑)、そうですよ。だから、モータースポーツが……あ、この言葉もまだなかったというか、自動車でレースすることをどう呼んでいいのか、そういう合意がないというような時期ではあったけど。でも、さっきも言ったように、これに関連するネタ自体は豊富だったから。
----そうか。でもこの本でも、レースとかレーシングとか、こういった用語がこの本の中で使われてますね。
林 ただ、「インプレ」における『オートスポーツ』らしさというのは一応あって、この、試乗記でも、わざわざ富士スピードウェイまで乗りに行っています。……読んでみましたか、これ?
----読んだけど……。キレイに言えば、書き手がクールすぎ! きびしく言えば、ムスタングというクルマへの“愛”がほとんど感じられないような文章で、あまりおもしろくなかったな。
林 きわめて高名であるレーシング・ドライバーが執筆してるんですけどね。ダメでしたか?
----まあ、GT仕様とはいえ、あくまでもアメ車であるムスタング、それと生沢徹氏では、やっぱり“合わなかった”のではと思います。書き手がどうこうというより、編集部の車種選定にそもそもムリがあったんではないですかね、このページは。
林 「レーサー生沢徹」は60年代を通じて何度も『オートスポーツ』に寄稿してるんですよ。イギリスでF3レースに出始めたときにも、現地でレーシングカー・ショーがあると、写真を撮ってリポートしましょうとか、ね。浮谷東次郎や式場壮吉も“書けるレーサー”といえるかもしれない。
----ひとつ、おもしろいと思ったのは、このムスタングが「MT」であったことです。3ペダルとフロアから生えたシフトレバーの写真がある。60年代は米人も、こういうモデルにはマニュアルで乗ってたのかな、と。
林 “エスハチ”の記事があるというのも、当時は、市販車とレースが非常に“密着”してたから。これ(エスハチ)の場合、そのままレースに出るわけで。
----なるほど。だから読者にとっては、レース好きでこの本を買ったとしても、こういう情報はありがたかったということですね。
林 では、市販車関連のページはパラパラとパスして、その次に。新しい3リッターF1の解説ページで「レプコ・ブラバム」です。
----あ、ちょっと待ってください! その左ページに広告があって……。ヘッドコピーが「時速180キロを操る操縦席!」で、そして「操縦席」にルビが振ってあって、これは「コックピット」と読むんだと強調してある。
林 「スカイラインGT」ですね。シートの写真がメインになってるのは、いま見ても、ちょっと新鮮かもしれない。
----「プリンス スカイライン 2000GT-B」! ……このクルマが「プリンス」であって「B」であるというのは、これもまた、語り尽くせぬ(笑)テーマかと思いますが、ここではちょっとだけ、「時速180キロ」というのに食いつきます。
林 はい、最高速ですが?
----まず、この当時は、こんな“アウトロー”な広告表現(笑)もアリだったんだなあ、ということ。
林 でも、買った限りは、みんな(最高速での走行を)実践してたんでしょ?(笑)
----こんな速度? いや、出ないというか、出すところがなかったんじゃないかな。これ、66年でしょ? 「名神」は少しだけ開通してたかもしれないけど、「東名」はまだです。東名高速が、辛うじて厚木まで行けるようになるというのが1968年ですからね、たしか。
林 フウン……。
----あ、言いたかったのは、広告コピーや高速道路のこともそうだけど、例の“表4”ね。ここの広告で、フェアレディが最高速度は「165km/h」だって自慢してる。でも、その“スポーツカー”よりも──もちろんフェアレディはエンジンが1600ccで小さいわけだけど、このスカイライン、つまり4枚ドアの“セダン”の方がずっと速い!
林 そうですね。
----“クルマ日本史”の裏ストーリーで“速いハコ伝説”というのがある(笑)。スポーツカーより速いハコ、ハコこそ最速! そんなテーマで、その後に各社がそういうクルマを作りますが、そういう系譜の原点はやっぱりココだったのよね!と、あらためて思った次第でした。……ハイ、じゃ「レプコ・ブラバム」に行きましょうか!(笑)
林 じゃ、手短かに!(笑)あの、この時期、66年からF1の車両規定が変わって、エンジンが3リッターになる。それまでは1.5リッターで、その最後の「メキシコ」(グランプリ)で、ホンダF1が勝つんだけど。
----ええ。
林 ……で、そういう「新・F1」解説その一ということで、この号は「レプコ」が採り上げられています。そして、たまたまですけど、このエンジンが、この年(1966年)のチャンピオンになるのね。
----おお、第一回目でそれを載せたというのは先見の明か!
林 ここ(記事)にもあるように、「ブラバムは、このエンジンで5月のモナコ・グランプリ以降のF1レースに出場することを隠そうともしていない」って、けっこうヘンな翻訳日本語だけど(笑)でも、そういうことで。
----え、モナコで開幕するんですか、当時のF1は?
林 ……というか、このエンジンがブラバムに積まれて初めて走ったのは、1月の「南ア・グランプリ」でね。1月というのは、北半球は冬でも、南半球は夏真っ盛りなわけですよ。この「レプコ」っていうのも、本拠地はオーストラリアだし。
----あー、そういう“南半球問題”がらみの話ですね。それは、手短かにっていうのはムリですよね、おそらく?(笑)ハイ、じゃあ次回にじっくりお願いします。
----「デイトナ」の記事、10~11ページの写真ですけど、この各車間の“距離”がすごいなと思って。
林 ああ、けっこう、くっついてますね。まあ、スタート直後かと思いますけど。
----あ、“アメリカ”だし、単にローリング・スタートをしようとして周回中を、巧みに撮ったとか?
林 いやぁ(スタートのために)“並ぼう”というときは、こういう風にはならないでしょう。これはもちろん、レース中ですよ。だいたい当時、ものすごく“貴重なグラビア・ページ”ですからね。そこでの写真で、そんなスタート前の光景なんていう無駄遣いはしない(笑)。
----“デイトナ24時間”、正式には「デイトナ・コンチネンタル」というみたいですけど、これ、スタートはべつに“ル・マン式”などではなく?
林 ええ、記事にもありますけど、「スタートは60台の全出走車がペース・カーの先導でコースを一周する“フライング・スタート”方式」と14ページに書かれてますね。要するに、いつものアメリカン・スタイル。24時間レースになったというのは、彼の地では、これが初めてだったけど。
----それにしても、ワンカットで一挙に見られるレーシングカーの“数”というのが多い。望遠で撮ってるから、距離感が減って、うまく“固まって”見えるのかもしれないけど、それを差し引いても。……で、これ、先頭がフェラーリ?
林 フェラーリですね、オープンの「P1」。その「P1」から見て、左横にいるのがフォードGT40で、後ろのカーナンバー「28」と「27」がフェラーリの「275LM」。
----フムフム。
林 この時期、フェラーリは、まだ「P3」が発表になってなくて。……というのは、デイトナのレースは2月だったから。したがって、「P2」とか「P1」とか「LM」とか、そういうカスタマー向けのモデルがおカネ持ちチームに供給されていて、それが10台とか、あるいは、もっとかな? このレースで走っていた。
----おお、“山ほどのフェラーリ”?(笑)
林 それでいえば、フォードは地元だから、ワークスにプラスしてのサテライト・チームも……という大軍団。「フォードGT」は、さらに“山盛り”状態(笑)。
----ところで、さっき(10~11ページ)の写真もそうだけど、“フォード圧勝!”と騒ぐ割りには──えーと、あ、この15ページの写真にしても、フォードを2台のフェラーリが“超・接近”でマークしてる。……というか、タイト・コーナーで、確実に追い詰めてますよね?
林 想像も交えてですけど、フォード、そんなに速くなかったんだと思います(笑)。……というか、フォードは、たしかに大排気量のV8だけど、OHVのエンジンだし、ボロボロいって走ってるわけでしょ(笑)。かたや、フェラーリは、V12(V型12気筒)の4リッターくらいのが、クォーン!と回って!
----ヨーロッパ製の精密なマシンと較べて、実は、そんなに優位ではなかった?
林 だから、ル・マン(1966年)に、「マーク2」だけで8台も投入したんじゃないですか? ただね、この「デイトナ」で重要なのは、フォードが24時間レースを闘えること、24時間をちゃんと完走できるんだっていうのを示したことです。
----なるほど。
林 ……で、その通りに、ル・マンでは、前回も語ったように“編隊飛行”して見せて、ワン・ツー・スリー・フィニッシュで「フォード・マーク2」が完勝した。
……ウン!
林 言い換えれば、ル・マンでフェラーリは惨敗を喫したということ。それで今度はフェラーリが、大いに“ムッとする”わけです(笑)。
----ヨーロッパ人にとっては、長い歴史を重ねてきた、自分たちの聖地ル・マンを、メリケン野郎が土足で踏みにじった?
林 そうそう! それで、これは創刊号──じゃない、この“月刊1号”ネタではなくなってしまうんだけど。アメリカ人よ、翌年の「デイトナ」を見てろよ!……ということで、67年にフェラーリは、ここのバンクに「P4」を三台並べてゴールするんですねぇ!(笑)
----おお! 66年のル・マン/フォードのことを“オトナげない”と、前回にふと呟いてしまったけど、そのフェラーリもまた、相当に……(笑)。
林 まあ、そもそも“オトナ”は、レースなんかしないですからね!(笑)
----ウム!(笑)……ところで、このモノクロ・ページでずっと気になってるフォトがあるんですが、この11ページに、なぜかクレバーな印象さえある、ひときわ鋭利なシェイプのクルマが走ってますよね?
林 アメリカンでもイタリアンでもない感じの、でしょ?(笑)ハイ、それが「カレラ6」です。“走ってるカレラ6”が見られたのは、ひょっとしたら、この『オートスポーツ』が初めてだったかもしれないですね。
----発表されて間もないという頃?
林 ええ。ポルシェの「カレラ6」は、この「デイトナ」がデビュー・レースでした。これもまた“時代を変えたクルマ”で、話し始めると、これも長いですけど(笑)。
----あ、はい……(笑)。
林 そして何と! このクルマ、「ポルシェ・カレラ6」が“日本に来る”っていう話になったんですね。
----それは、5月の“日本グランプリ”に?
林 そう。ちなみに、『オートスポーツ』のこの次の号、5月号の表紙は「羽田空港に着いたカレラ6」なんですよ。
----ははあ! ……あの、この頃の『オートスポーツ』の表紙って、4月号の“赤いニッサン・プロトタイプ”もそうだけど、何というか“ニュース・ネタ”のそのものが表紙になってるような?
林 それは、この時期の編集スタッフの“ブン屋”(新聞屋)さんとしてのセンスというか……。それに、この頃は、ひと月に一度は大きなニュースがあったから。
----そうか、ネタに困るようなこともなく?
林 ええ。それに、そもそも、ずっとそうだった(基本的にニュース主義だった)ですよ、『オートスポーツ』という本は。
----そして、この「デイトナ」グラビアでの、もうひとつの“華”が「シャパラル」ですね!
林 「シャパラル」については、あとの方の“2色オフ”ページに「ジム・ホール物語」なんていうのもあるし、そのときにでも、また採り上げませんか? ----“2色オフ”! 正しくは“オフセット”でしたっけ。得意の出版・編集用語が出ましたね。“グラビア”だけは、色っぽいギャルたちのおかげで今日まで生き残ったけど(笑)、ほかの用語は、たとえば“活版”にしても、どうなっちゃったのか? では、そんなコトも含めて、「シャパラル」は──。
林 “明日のココロだぁ~”!(笑)
----ワハハハ(笑)。すみません、みなさま! 「シャパラル」もコレも、いずれちゃんと説明しますので……。
----さて、巻頭企画を見て行きたいんですが、テーマが「デイトナ」ですね。
林 はい、アメリカ・ネタです。
----あの、この本が4月号ですが、雑誌業界の常で、4月号は4月に売られるというわけではない。それより前に売ってるとすれば、この雑誌が実際に編集された時期は1月とか2月とか?
林 そうですね、概ね、そんな時期でしょう。
----すると、話題の日本グランプリは、もちろんまだ“やってない”し、大きなネタとしては、これ(アメリカ関連)をメインに採り上げざるを得なかった?
林 ……とも言えるけど。ただ当時は、「デイトナ」は“アメリカの草レース”とか、そんな風にはまったく言われてなくて、リッパな“外国の大きなレース”だったからね!
----おお!
林 いまだったら、F1が頂点にあって、こう、ピラミッド形状で……となってるけど。でも当時は、F1も、スポーツカー(レース)も、ツーリングカー(レース)も、日本のレースも、全部、同格なの。
----なるほど。新設のサーキットであった「富士スピードウェイ」にしても、“アメリカン・スタイル”が混じってますもんね。
林 もともとはオーバルでコースをつくろうとして、途中から、チョコマカしたコーナーを付け加えて、ああいう“米欧ハーフ”みたいな(笑)レイアウトでまとめたと言われてます。富士の1~2コーナーが“30度バンク”になってるのは、その名残で……。
----あ、いまの読者の方には、“30度バンク”がどうこうだったと説明するよりも、「もてぎ」のオーバルを見てくれと言った方が、はるかにわかりやすいのかな?
林 そうかもしれません、コースの形状的には、ね。ただ「富士」の場合は、地形の関係もあって、“駆け降りてオーバル!”“下りながらのバンク走行”だったので、運転手さんは相当コワかったというか、度胸が要ったみたいです。
----ヨーロピアンな鈴鹿、アメリカンの富士。60年代の日本には、こんな二つのレーシング・スタイルがそれぞれ呈示されていた、と?
林 ええ。だから、さっき言った「同格」というのは、そうした日本国内のサーキットの設定というか、設計そのものにも現われていたわけです。
----そういう“日本史”から誌面に戻りまして(笑)、この「デイトナ」ですけど。あの、当時に「レッドライン7000」という映画があって、これを見た人は、このコースは、ひたすらストックカーが走るオーバルだと思っていたそうで?
林 そうみたい。でも、これ(誌面)で見るように、インフィールドにもコースがあって、ちゃんとこうして“コーナー”もあったのね(笑)。
----この“月刊1号”以前に、日本のメディアで「デイトナ」が採り上げられたことってあったんですか?
林 いや、ないでしょう。……で、このレースは前年は“コンチネンタル2000キロ”って言っていたんですが、65年の、そのデイトナでのレースに関する日本での記述は、『カーグラフィック』に、このくらい(と二本の指で“小さい”仕草をする)載ってただけでした。
----そして、そのレースがこの年から「24時間レース」に?
林 そう。ル・マン(24時間)のようになったのはこの66年からで、それはアメリカでは初だった。だから、こうして『オートスポーツ』で巻頭カラーなんだけど、偶然なのかなあ? 『カーグラ』でも66年の4月号では、このレースを採り上げてるんですよ。それも何十ページにも渡ってね。だから、ぼくらファンは、ある日突然“24時間レース”に詳しくなっちゃった(笑)。
----フフフ……(笑)
林 あ、フォードGT、速かったんだ! フェラーリ、まだ(P2のままで)新型じゃないぞ? あ、シャパラルがいる! ……っていう感じで、当時の日本のクルマ好き少年たちに、ものすごい勢いで(耐久レースの情報が)インプットされたのね。
----フォードと言ってもマスタングではなく、ここでいきなり“アイドル”は「GT」になった?(笑)
林 そうそう!(笑)
----この写真、バンクの向こうの空が青いですねえ! カリフォルニアですか?
林 いえ、フロリダです(笑)。デイトナ・ビーチっていうくらいですから、海のそば。暖かいから、こうやって、冬の2月でも24時間レースができる。
----ここを読むと、マニファクチャーズ・チャンピオンシップで、その初戦であるこのレースに「世界のプロトタイプが挑んだ」とありますね。
林 「GTマーク2」のフォード、ポルシェは「カレラ6」、フェラーリは「P2」「275LM」、そして……。
----この白い「65番」は“チャパラル”? 何?……おお、「シャパラル」ね!
林 クーペ・ボディに架装されて、このデイトナに出て来た「シャパラル」、「2Dプロト」ですね。
----そうして、この貴重な(笑)カラーページが終わると、モノクロになって、その“アタマ”が「フォードの野望みのる!!」──
林 フォード・マーク2の3台が“編隊飛行”みたいになって、揃って走ってますね。
----この頃のフォードって、ル・マン24時間レースでも、こんなことをやってませんでした?
林 この(2月の)デイトナでは、フォードは上位3位までを独占。そして(6月の)ル・マンで、史上初めて、フィニッシュで、3台を“編隊飛行”させた。この話を始めると、また長くなるけど(笑)。
----全然オッケーですよ、どうぞ!(笑)
林 ル・マン24時間のフィニッシュ、最終ラップに、フォードの3台が並んで、そして、ものすごくゆっくり走って、チェッカーを受けた。ほぼ、同時にね。……で、3位車はいいとして、並んでゴールした1位と2位は周回数が同一だった。
----ははあ……!
林 だから2台は、“走破距離”は一緒。24時間レースというのは、その時間内で、誰が一番長く走れたか、遠くまで行けたかを競う──。
----しかし“同時チェッカー”では、それが決められない?
林 ええ。……で、フィニッシュが同じなら、じゃあ「スタート」に還ってみようということになって……。
----この頃のスタートは、いわゆる“ル・マン式”?
林 そう。代名詞にもなっていた、ストレートに止めておいたクルマに、ヨーイ・ドン!でドライバーが駆けつけ、乗り込んでスタートするというスタイル。いまでは、もう、行なわれてませんが。それで、スターティング・グリッドにクルマを止めていた位置が、この2台のクルマでは「20m」ほど違っていた。
----ウワ!(笑)
林 ……ということで、マイルズ/ハルム組より「20m」後方からスタートしたマクラーレン/エイモン組が、24時間、より長く走ったということで優勝ということになりました。
----あれ? グリッドが後ろであったということは、予選では?
林 はい、マイルズ組が上位でしたね。つまりマイルズは、予選が速かったゆえに、ル・マン優勝を取り逃がすことになったわけです。彼は、デイトナでもセブリングでも勝っていたので、ここで勝てば3勝目になったんですけどね。ただ、マクラーレン組もマイルズ組も、同じ“シェルビー・アメリカン”からの参戦で、順位については、一応、内輪揉めはなかったようですが。
----ははあ……。
林 ……というのが66年です。それで──。
----あ、まだ、何か?(笑)
林 いや(笑)……。あの、そもそも、この「フォードGT」というのがデビューするのが1964年。このときは、エンジンは4.2とか4.7リッターで、このマシンがいわゆる「GT40」です。デビュー年のこの年は、リザルト的にも散々だったけど、翌65年には、エンジンを7リッターにした「マーク2」を戦列に加えた。65年のル・マンで、トップを走っていながらリタイアしたというのは、この「マーク2」でした。
----なるほど、そうやって仕様を強化していて……。
林 これを当時の日本に紹介していたのは『カーグラフィック』だったんですが。……で、フォードがそうやってリタイアした65年のル・マンはどうなったかというと、勝ったのはプライベート・チームのフェラーリ「275LM」。これでフェラーリは、ル・マンで6連勝!
----おお! それで、帝王ヘンリー2世(フォード)が、怒り狂って(笑)ル・マンに“勝ちに行った”んだ! それと、これってフォードとフェラーリの“契約問題”、そしてエンツォ(フェラーリ)による最終段階での拒否とか、そんなのも絡んでませんでしたっけ?
林 契約問題というより、会社自体の買収問題ですね。
----会社を買収? フォードはフェラーリを「買おう」とした?
林 そうです。
----すごいなあ、米帝資本!(笑)……。ふーん、買っちまおうとしたんだ!
林 それはまた、話がほんとに長くなるから“自己規制”して(笑)ル・マンに話を戻すと、リタイアに終わった65年の翌年、フォードは、8台の7リッター「マーク2」と5台の4.7リッター「GT40」をル・マンに持ち込む。
----それが1966年か。じゃ、この「デイトナ」は、そのリハーサルとも言えて?
林 まあ、モノクロの最初のところ、マーク2が3台並んだ「7ページ」のこの写真は、偶然、フォードが3台並んだというに近いですけどね(笑)。
----でも、そういう経緯があっての、ル・マンでのフォードの“わざわざの編隊飛行”だったんですね。わかるよ……と言ってあげたい反面、オトナげない!……という感もあるな(笑)。
林 デイトナに話を戻すと、ここで、フォードGTがこんなに大量に走ってるというのは、全車が一つのチームというわけではなくて、複数のチームに分散されてるから。実は、そのチーム間では、けっこう強烈なライバル意識があった。
----なるほどね!
林 “フォード使い”のナンバーワンのチームは“シェルビー・アメリカン”ですけど、このデイトナでも、そしてル・マンでも、3位に入っていたのは“ホルマン&ムーディー”というチーム。フォード系アメ車ファンには、シェルビーよりも、このホルマン&ムーディーの方にグッと来るものがあった……というのは、ちょっと余計な話でしたかね(笑)。
----いえいえ(笑)。……うーん、そういう「66年」だったのか。でも、ル・マンも絡んで、この“66年デイトナ”の話、まだまだ終わりそうにないですね?
林 フェラーリのことなんか、まだ、全然喋ってないでしょ?
----はい、次回に続きます!(笑)
林 表紙の話をもう少しさせてもらうと、その“赤いプロトタイプ”がここまで“ナナメ”っていうのが、やっぱり強烈ですよね!
----これって、写真的に何か細工してこうなってるんじゃなく、たぶん当時の富士の“バンク”って、普通に撮るとこうなったんでしょうね?
林 そうそう! ふたたび120~121ページに戻ると、ここでの写真、カメラはいつも水平なわけです。でも、クルマの方がこうやって“傾いて”素っ飛んでくるのね(笑)。
----ウム、新鮮なアングルだ!
林 この“30度バンク”は、のちのち事故が多発して、あれは何だ!?ということになり、結局、なくなっちゃうんだけど。でも、(1966年)当時のインパクトと存在意義は、やっぱりあったと思う。
----今度は鈴鹿ではなくて、こんなトコを走るんだよ、と?
林 それもひとつです。だから(レースを)見たくなるでしょ。この表紙を見て、あの「ナナメの場所に行こう!」と、みんながバンクに行った。そしてもうひとつは、その“30度バンク”に群がってレースを見ていたクルマ好きの人たちが、その後に(日本の)レース界でレースするようになるということ。
----なるほど!
林 多くの人が「レース」というものに目を向けた、また、目を向けさせた。その意味でも(富士の登場とそのバンクの存在は)大きかったと思います。そのくらいに、象徴的な場所ですね。
----だから、それを撮った、この表紙の写真には──
林 余計なコピーは要らなかった! ……か、あるいは、忙しくて付け忘れたか?(笑)
----ハハハ(笑)、やっぱりそこへ行きますか。
林 この頃の日本グランプリって、スポーツ新聞の一面を飾るようなイベントでしたからね。それから、この半年前ですけど、1965年・秋の東京モーターショーが“大盛り上がり”だったし。
----当時は、ショーの会場は晴海でしたか?
林 そうです。……で、65年は「トヨタ2000GT」がデビューしたとか、メキシコ(のグランプリ)で勝ったばかりの「ホンダF1」がやって来たとか。あるいは、谷田部(の自動車テストコース)で速度記録に挑戦した、プリンスの「R380」(アール・サンパーマル)が(ショーに)出て来たとか。
----おお、熱いですねえ!
林 この65年の秋から、日本のモータリゼーションが爆発的に伸びてくる。富士の日本グランプリというのは、その真っ只中に行なわれるわけです。「380」にしても、たしかに記録は作ったけど、これは単なる“レコード・ブレーカー”じゃないだろう、と。
----当然、レースにも出るはず?
林 ……と、盛り上がっていた。
----本格的な「大衆車」の元祖といえるカローラ/サニーの登場も1966年ですね。クルマ世界の進化・発展とレースでの活動が、メーカーというフェイズでもシンクロしてた時期と思います。
林 あと、レースのメディアということで言うと、この『オートスポーツ』のライバル誌には『カーグラフィック』があって、これは総合誌だけど、モータースポーツの記事が充実していた。『カーグラフィック』にしても、それ(スポーツの記事)で売れるという判断があったからこそ、この頃、そうしていたはずで。
----『カーグラ』は、レースを含む海外の情報には強かったから!
林 さらには、ベースボール・マガジン社の『カー・マガジン』というのもあって、これはレースにも関係した人たちが関わるようになった途端に、モータースポーツ誌みたいになっちゃった(笑)。だから、この時期に、『オートスポーツ』が季刊から月刊になったのは、むしろ必然だったでしょうね。
----月刊化しても、レース記事には事欠かなかった?
林 ちなみに、次の5月号の『オートスポーツ』巻頭のネタは、グランプリ目前の富士での各チーム、そのテスト風景です。炎上するトヨタ2000GTが載ってたりして。
----さて、そろそろ表紙をめくって中身を開くと、このほとんどレイアウトされてないような(笑)デザインの目次があって……。
林 ハハハ(笑)、それはちょっと言いすぎでは?
----表紙についても、ここに短く記してはあるのね。
林 「表紙 富士スピードウェイにあらわれたプロトタイプ・フェアレディ」ですね。
----そして、トップ記事が「デイトナ」。
林 巻頭カラー! これは「口絵」と言っていて、当時は(読者にとって)この“色つき”がものすごく貴重だったのです(笑)。……ああ! その口絵の中でカラフルに、ここ(デイトナ)でも“バンク”をクルマが走ってますねえ。
----“バンク”で富士とデイトナがつながった……というその前に、これは日本グランプリの広告ですか?
林 そうです、5月3日、富士スピードウェイ。決勝レースはS席で4000円。けっこう、する! 当時の初任給っていくらですか?
----あ、それは某総研というのがデドコロですが、データを持ってます。1966年で2.5万円。ちなみに、その前年は2.3万、67年ですと2.7万円ですね。
林 この時期、「少年サンデー/マガジン」が50円、これは創刊当時は30円でしたが。ラーメンも70円くらいで食えたという記憶がある。
----大卒初任給の数字は、70年代半ばから急に伸びて、77~78年に10万の大台に乗る。でも、60年代はこんなもんでした。
林 この4000円は高いなあ!
----まあ、自由席だと900円ってなってますけどね。
林 ちなみに、その同じ年(1966年)に、「日本インジ」というレースが──“インディ”じゃなくてね(笑)、それがあったんですけど、これはチケットが数万円してた!
----そういうのよりは、ずっと“良心的”? この広告にある「30度バンクに面したコーナー席」というのは、こっちのリストでは「第一コーナー席」ということになるのかな? その席だと2000円ですね。
林 大衆車として、この年に華々しく登場したサニーとカローラが?
----約40万円。そして、フェアレディで80万円台であったと思います。
林 そんな時代の、日本グランプリと『オートスポーツ』。ちなみに、この“月刊1号”は?
----はい、230円でございました!
(第3回に続く)
----あ、どうも、ごぶさたしてまして。
林 何なんですか、今日は?
----今日はですね、レースとそのメディアの歴史に“詳しすぎるほどに詳しい”(笑)林先輩に、たっぷりと、古いレース雑誌の話をしていただきたいと。ほら、現物もここに──。
林 あれ、『オートスポーツ』誌の“月刊1号”だ!
----そう、ここに、斜めにそんな文字(月刊1号)も入っていて。……で、その“文字”もですけど、これって、こうやって表紙見てるだけでもナゾがいっぱい(笑)。このナゾを語れるのは、日本広しといえども「林信次」ただひとり!
林 ハハハ(笑)、でも、その“文字”(のナゾ解き)はカンタンですよ。月刊化の第一号というだけのこと。要するに、この号までに、何冊も『オートスポーツ』は出てたので。
----あ、いわゆる創刊号ではないんですね、これは。
林 そうです、そこ(表紙)に書いてないですか、ナンバーいくつとか?
----えーと、「モーターファン オートスポーツ №9」……。
林 それ66年の4月号で、それまでに8回、『オートスポーツ』は刊行されてた。季刊、つまり春、夏、秋、冬で、年に4回。この号の2年前からね。
----ははあ。
林 ……で、それが好評だったんでしょうね。だって、季刊でやっていてダメだったら、こんな風に月刊にはならないから。
----そうか。……で、林さんは、それらも全部お持ちで?
林 そんな(笑)。ぼくがいくつ(何歳)だったと思ってるんですか! この「月刊1号」はたしかに持ってますが、それは後年に買ったから。リアルタイムで、ぼくが『オートスポーツ』を読み出したのは67年頃からかな。……で、そうするとバックナンバーがほしくなり、世に古本屋というものがあることを知って、そこでこれも手に入れた。
----なるほど。一応まとめると、すでに季刊で存在していた雑誌が、1966年という時点で、その4月号から月刊化された。そして、これはその栄えある初号である?
林 そういうことです。
----ということは、想像を逞しくすると、この時期に、それまで季刊雑誌であったものを月刊に踏み切ることにした理由が、何かあった?
林 お、スルドイですね!(笑)うん、それはやっぱり“日本グランプリ”でしょう。この時期(1966年春)、ちょうど富士スピードウェイが“できたて”で、そこで第三回のグランプリをやるぞということになっていたので。
----えーと、日本グランプリの第一回は1963年で、これは鈴鹿ですよね?
林 ええ、そして第二回も同じく鈴鹿サーキットで行なわれ、まあ盛り上がるんだけど。でも、64年にそうやってレースを行なったあと、日本グランプリはいったん休止される。そういう“空白の一年”があったあとの、1966年で──。
----なるほど、そういう時期。……で、その富士でのグランプリが?
林 1966年の5月に開催予定。
----ははあ、そういう意味では、ビッタシ!というタイミングの月刊化なのか。
林 だから、表紙もね! まさに、そうなっていて──。
----え、これが? いや、表紙にナゾいっぱい・その二ですけど(笑)、だいたいこの“赤いクルマ”は? こう、ナナメになっていて、でもこれ、すっごくロールしてる。だから右コーナーみたいではあるけど?
林 クルマは(ニッサンの)フェアレディ。ドライバーは北野元。あ、それはテスト走行だから、北野さんが乗ってはいないかもしれないけど。グランプリの本番では北野元が乗る。
----「Z」になる前のフェアレディですよね。でも、フェアレディって、こんなグリルじゃなかったのでは?
林 だから、プロトタイプ。本(この雑誌)をひっくり返すと、“表4”がニッサンの広告で、市販のフェアレディでしょ。あれ、「イケない名車」なんていうヘッドコピーが付いてるな、何だこれは(笑)。でも、ほら、この本はこうして、表1と表4がフェアレディで“対”になってるわけですよ、すごいなあ!
----そんなにすごいのなら、この表紙について、どこかに詳細な説明でもあるのかと思いきや、“表紙の言葉”みたいのはどこにもないですよ。
林 いや、説明はあって、121ページ、「富士スピードウェイの練習風景」というグラビア。そこに、ほら!
----えーと、「これがフェアレディを改造した日産のプロトタイプだ。2000cc6気筒のダブルOHCを積んでいるという説と、1600cc4気筒という説があるが、ミッド・エンジン・プロトの2分09秒(167.6㎞/h)というラップタイムにまさるクルマは現在までのところ、ないようだ」……。なるほど、こういうキャプション(写真説明文)は、たしかにありますね。
林 同じページに、プロトタイプじゃないフェアレディの写真もあるでしょ。
----あーっ、表紙とおんなじ“角度”だ! 

林 120ページでは、スカイラインとかコロナも「バンク」を走ってますね。その上の写真、3台並んで「バンク」を降りてくるのはブルーバードじゃないかな。
----そうか、これは、レーシングカーが富士の「バンク」を走ってる!……という写真。それを、この本は表紙にした!
林 新設の富士スピードウェイ、そこで、もうすぐ行なわれる“日本グランプリ”。その富士には、象徴ともいえる「30度バンク」のコーナーがある。そして、それを駆け下る“赤い未知のクルマ”。ボディシェルとボンネットから見ると、フェアレディにも見えるが、しかし、これはひょっとして、フェアレディの皮を被ったプロトタイプか?
----ニッサンは“富士のグランプリ”で、いったい何をしようとしている!?
林 そう! 表紙のこの写真は、そういうニュース性とドラマ性が詰まったワンカットなのです。
----だから、何の説明も不要である?
林 そういうことだったと思いますね。
----うーん、この表紙って、何も文字(コピー)が入っていないというのも、ナゾのひとつだったんですが。
林 ……というか、この時点ではほんとにナゾだったので、このクルマ(赤いプロトタイプ)について何か説明しようとしても、それはできなかったよね(笑)。
----でも、“グランプリ直前、富士に現われたニッサンの秘密兵器!?”……くらいのことは、コピーとして表紙に入れられたのでは?
林 でも、この本(雑誌)って、編集後記みたいなものも一切ないからなあ。雑誌として“荒削り”な部分もあって、だから表紙についても……。
----せっかくのスクープ写真、このドラマチックなフォトに、何か文字を噛ませる方がヤボである、と?
林 ……というように編集部として考えたか。あるいは、月刊化という編集作業の慌ただしさの中で、単に忘れたのか。
----あれっ!?(笑)
林 歴史には、ナゾはつきものなのです(笑)。
第2回に続く