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ラリー/WRC ニュース

投稿日: 2020.06.18 17:59
更新日: 2020.09.03 18:19

日本人ラリーストのパイオニア、篠塚建次郎が語るグループA「ラリーにピッタリなとてもいい規定だった」

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ラリー/WRC | 日本人ラリーストのパイオニア、篠塚建次郎が語るグループA「ラリーにピッタリなとてもいい規定だった」

篠塚:そこでまたちょっと悪ノリ(笑)。今度はヨーロッパのラリーに出たいなと思うわけ。次はあっちをメインにやりたいと言ってみたら、また予算がついた。でもヨーロッパのWRCに出て、正直「スプリントはちょっと無理だな」とも思ったね。6~7位には入れたけど、トップとの差が大きくて。当時もう40歳を過ぎてたし、これから伸びるとは自分で思えなかった。もう少し若ければもっとやれていたかもしれない。死んでいたかもしれないけどさ(笑)。

──そして1991年、コート・ジボワール(アイボリーコーストラリー)でWRC初優勝。日本人初のWRC勝者になりました。
篠塚:自分にとって大きな出来事だったね。「え、WRCで優勝しちゃったの、オレ?」といった感じで。自分でもちょっと衝撃的だった。あそこはすごく速いラリーで、サファリよりもさらに速い。200キロオーバーのところがいっぱいあって、でもコース幅は狭く日本の林道みたいな道も多くとても怖かった。あのときはトラブル続きだったけど、やっぱりうれしかったね。自分にとっては、パリダカの優勝よりもうれしかったな。例えるならパリダカはオリンピックで、WRCは世界選手権。ドライバーにとって世界選手権での優勝は、やはり特別だった。

──日本製のグループAギャランにとっても初優勝でした。
篠塚:当時、ギャランはやはりデカかったけれど、とても乗りやすくていいクルマだった。1993年からランサーエボリューションに替わって、とてもコンパクトに感じた。ギャランが乗用車だとしたら、エボはレースカーという感じ。それくらい違った。

──(当時三菱ワークスの)ケネス・エリクソンは「エボがレーシングカートなら、ギャランはバス」と評していました(笑)。篠塚さんは翌年もコート・ジボワールを制し、1994年と1995年のサファリではランエボで2位と、優勝まであと一歩に迫りました。
篠塚:サファリは学生時代に映画を見て憧れていたラリーだったから、勝てなかったのはいまだに悔しいね。1994年は優勝の可能性があったから、特に残念で心残りだよ。

──最後に、篠塚さんにとってグループAとはどのような存在でしたか?
篠塚:ラリーは市販車を使うでしょ。走る場所も一般の道だし、人が見てる目の前を走り抜けていく。とても身近な競技なんだよね。だから市販車がベースのグループAというのはラリーにピッタリな、とてもいい規定だったと思う。ラリーカーをカッコよく作って、それとおなじクルマを売る。あなたが使っているのとおなじクルマがWRCに出ているんですよと言えたし、その一線は絶対に守らなきゃならない。そういう意味では、現代のWRカーは少しかけ離れ過ぎてもいるような気がするね。

1992年、ギャランで連覇達成のコート・ジボワール(アイボリーコーストラリー)
1992年、ギャランで連覇達成のコート・ジボワール(アイボリーコーストラリー)
インタビューを受ける篠塚建次郎
インタビューを受ける篠塚建次郎

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 ここで篠塚は自身最後のWRC戦となった1997年オーストラリアについても言及し、引退を決めた瞬間やその理由についても赤裸々に語っている。当時を知るWRCファンならずともモータースポーツフリークならば必読の内容となっているはずだ。内容の詳細と購入は三栄のオンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11411)まで。


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