こうしたことは、昔は起こらなかった。
昔は、主催者たちはライダーたちにレースをするように言い、イベントは何があろうと進められた。

1970年代と1980年代にはそのようなことが多くあったが、ライダーたちは死亡および負傷事故の数を減らすために主催者とFIM(国際モーターサイクリズム連盟)との戦いを続けた。
当時、FIMと主催者は恐ろしいほどに無慈悲だったのだ。1973年、モンツァでのイタリアGPでヤーノ・サーリネンとレンツォ・パゾリーニ双方が亡くなったとき、レースは中止されることさえなかった。
「大量殺戮のようだった」と致命的な多重クラッシュに巻き込まれた多くのライダーのひとりであるチャズ・モーティマーは振り返る。
「歩いてその場を離れられたのは自分ひとりだけだったようだ。皆、ストレッチャーで運ばれていった。ヤーノの様子を見に駆け寄ったのを覚えているが、彼の頭部は事実上“すべて”失われていた。ぞっとする光景だった」
「実際には、私がパゾリーニを殺したのだ。コースの反対側で倒れているパゾリーニと炎から出てくる私の写真があるが、私はまっすぐ彼に向かって走っていった。マルコ・シモンチェリが亡くなったときに起きたことと似ていた」
無事だったライダーたちが、倒れて燃えているマシンの混乱をすり抜けて走るのに嫌気がさしてピットに戻ったことで、レースはやっと終わったのだった。
2週間後、モンツァは全国会議を開催した。有名なクリニカ・モバイルを生み出したクラウディオ・コスタ博士は、主催者に対し、サーリネンとパゾリーニが命を落としたクルバ・グランデに救急車の設置を願い出た。彼の要請は拒否され、さらに3人のライダーが亡くなった。
4年後、ザルツブルクリンクで行われたオーストリアGPの250ccクラスにおいて、スイス人ライダーのハンス・スタデルマンが同様の多重クラッシュのなかで死亡した。またも主催者は、少なくとも事故後8周まではレースを中止する必要がないと考えた。
この事故ではジョニー・チェコット、ディーター・ブラウン、パトリック・フェルナンデスも深刻な怪我を負っている。バリー・シーンやジャコモ・アゴスチーニといった当時のビッグスターやその他のライダーは、アームコのバリアで縁取られた恐ろしい(しかし美しい)コースで、グランプリの500ccクラスをスタートさせることを拒否した。
しかし、信じられないことに、FIMは無礼だとしてシーンに公式な警告を与えた。一方の主催者はパドックを走り回り、レースに出てくれる者には通常の2倍のスタートマネーを出すと申し出て回った。
このことはその後数年間のパターンを築いた。スターライダーたちがストライキを決行して、安全面の改善を実現させようとするが、財政力のないプライベーターはレースに出てしまう。食べ物を買い、クルマにガソリンを入れるために十分な現金を稼げるめったにないチャンスを掴むのだ。