マルケスのドイツGPでの勝利は、第2戦アルゼンチンGPで9.8秒差をつけての優勝に次ぐ2番目の大勝だった。
ザクセンリンクとテルマス・デ・リオ・オンドのレーストラックで、マルケスがライバルに大差をつけたのは偶然ではない。両コースともグリップが低く、コースを最も速く走る方法は、コーナーを通過する際にバイクをオーバーステアにするためにリヤタイヤをスピンさせることだ。誰もマルケスのようにこのようなことはできない。
マルケスがザクセンリンクで敗北したのは2009年7月19日のドイツGP125ccクラスで、当時の勝者はフリアン・シモンだった。そのレースはスペイン人ライダーばかりだった。セルジオ・ガテアがシモンを追尾し、一方で当時16歳のマルケスは、非常に重要な3番手争いをホアン・オリベとニコ・テロルと争っていた。
最終コーナーに差し掛かる際、オリベとマルケスは衝突し、マルケスは最終コーナーを通過する際にハイサイドになり、オリベが表彰台に上がることになった。

「そのことを覚えているよ。マルクはオリベとのクラッシュを避けようとリヤブレーキをかけていたようだった」とMotoEライダーのテロルは語った。テロルは2011年、マルケスがMoto2に昇格した年に125ccクラスで世界タイトルを獲得した。
「マルクが2008年に125ccクラスに来てすぐに、みんな彼のことを素晴らしいと言っていた。マシンフィーリングの掴み方や、特殊なライン取り、そして異なる気質を持っていることなどがね。2010年の125ccクラスを、僕は首位の彼に次いで2位となった。これは僕にとって特別な思い出だ。おそらく史上最高のライダーであるマルク・マルケスの次の順位だったのだからね」
皮肉なことに、シモンは今ではマルケスの最大のライバルであるマーベリック・ビニャーレスのライダーコーチを務めている。しかし、シモンもまた2008年の若きマルケスの登場を覚えている。彼らはレッドブルKTMのチームメイトだったのだ。
「初めてマルクと会った時、彼は本当に若かったけれど、特別なライダーだということがすぐに分かった」と2009年に125ccクラスで世界タイトルを獲得したシモンは語った。
「ガレージでは、マルクはいつもメカニックやチームマネージャーの話を聞いていた。とりわけ、バイクのセッティングに関する彼のコメントはとても正確で鋭かった」
「2011年と2012年に僕たちはふたりともMoto2に参戦していた。そしてまたも彼の特別な面を見ることになった。コーナー進入の際に、彼はフロントタイヤをコントロールするためにしっかりと感触を捉えていた。彼はフロントタイヤに関してはたくさんミスをしていたけれど、今のMotoGPでのようには転倒していなかったよ」
「特に記憶にあるのは、2012年にフレームを硬くするためにカーボンファイバーで強化したスッターのシャシーに彼が乗っていたことだ。それは厄介なバイクで、マルケスしか乗ることができなかった。彼はそのバイクでクラッシュしたが、僕よりもクラッシュの回数は少なかった。彼はフロントをさらにコントロールしていたからね。フロントタイヤのコントロールが彼の最大の強みだ」

多くの人々が、マルケスがすでに2019年のMotoGPチャンピオンだと主張しているが、彼らはドゥーハンのことを忘れている。ドゥーハンは1992年のシーズン半ば、選手権の500ccクラスで52ポイント差をつけて首位にいたが、タイトルを獲得できなかったのだ。
もちろんマルケスが王冠を失うことはあり得る。シーズン後半にはさらなる挑戦が待ち受けていると予想されているからだ。
ドゥカティのデスモセディチGPはブルノ、レッドブルリンク、シルバーストン、ミサノ、アラゴン、もてぎでは調子が出るし、ビニャーレスとファビオ・クアルタラロは、ヤマハでもっとスピードを出す新たな方法を見出しているところだ。