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投稿日: 2020.04.07 07:15
更新日: 2020.10.15 15:08

ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」:MotoGPの4サイクルの技術規則はこうして決まった(後編)


MotoGP | ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」:MotoGPの4サイクルの技術規則はこうして決まった(後編)

 しかし、こういう事態を招いたのは自分にも原因があるなと思ったのも事実。「次期プレミアクラスの技術規則は俺がリードして決めてやったぜ」、みたいな自慢げな気持ちが態度の端々に出ていたのだろう。

 1993年以降チャンピオンに縁のないヤマハファクトリーを何とかして復活させたい、科学的なアプローチで開発を主導したい、自分がやるしかないとハラ決めした矢先のことで、正直心残りではあった。苦労の末に新生マルボロ・ヤマハ・レーシングチームを立ち上げ、そして開幕戦の惨状を見届けた後に住み慣れたレース部門に訣別したのは、風薫る五月のことだった――。

 その後風の便りで、注力した技術規則も強力なネゴシエイターを失った時点で換骨奪胎の憂き目に遭い、キモとなる最低重量区分は4気筒と5気筒が同一区分に属するという技術規則にぴったりと合致する楕円ピストンに劣らない独創的なV型5気筒マシンによって、2002年のMotoGP初年度は16戦中14勝というとんでもない勝率でほぼ完全制覇されたのを知った。そしてそれは不世出の天才ライダー、バレンティーノ・ロッシの黄金時代の始まりがより明確になったターニングポイントでもあった。

 一方、レース部門を離れた筆者はその後のレース結果の低迷もどこ吹く風、業界関係の仕事でスーツに身を包んで毎週のように花の東京へ日帰り出張するという浮かれたサラリーマン生活を送っていたのだが、この時点ではその後に待ち受ける過酷な運命というか使命について知る由もなかったのである。

★プロファイル
キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。’76年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中’99年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、’03年にはレース部門に復帰。’05年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える’09年までMotoGPの最前線で指揮を執った。
※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。


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