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投稿日: 2020.04.19 14:37
更新日: 2020.10.14 00:25

ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」:MotoGPの排気量変遷の謎(中編)


MotoGP | ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」:MotoGPの排気量変遷の謎(中編)

 正直なところこれには困った。990ccの開発も休むわけにはいかないし、その上800ccの開発が始まるとなるとリソース(人やお金)が完全に足りない。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うではないか、と危惧したとおりでY社の戦績は2006年、2007年と低迷を極めることになるのだが、この話はまた別の機会にとっておこう。なにせ、話し出すと簡単に終わりそうにない(笑)。

 いささか自虐的な話になるのだが、800ccとなったMotoGPの開幕戦、2007年カタールGPのウィナーはイタリアのD車で、その速さは驚異的だった。最終コーナーをトップで立ち上がってきたY車がストレートでやすやすと抜かれたあげく、シフトアップのたびに置き去りにされるオンボード映像は現実のものではないように見えた。最高速の差は軽く25km/h以上あったと記憶しているが、この信じられないような現実をコース上で体験したライダーはレース後に、「なんかさ、シフトアップするたびにロケットみたいにバビューンって離れてくんだよ。チャオチャオって感じでもうやってらんないよ」と言ったとか言わないとか。

 イタリア人のチームマネージャーにいたっては、「あれは絶対に800ccなんかじゃない。D社は絶対にインチキしている。イタリア人の俺が言うんだから間違いない」と言い出す始末。ただ、これはあくまでY社のピットボックス内での話。D社がインチキしていたとの確証はない。

 800cc化と同時に燃料タンク容量も小さくなったので当然燃費も苦しくなった。燃料をキンキンに冷やして少しでも密度を高めようと周到に準備を進めていたD社のレースに賭ける姿勢については、正直負けたと思ったのも事実である。カタールは低地なので気圧が高く燃料消費も多くなる。Y社はというと燃料を冷却するなど全く発想になく、またレースを完走するために空燃比を調整してリーン(薄め)に振っていたので、ただでさえ性能が出ていなかったエンジンは不調に終わる。これでは勝負になるはずもなかった……。

(後編に続く)

キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。写真は2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。


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