彼は当時低迷していたヤマハ陣営にあって同年の500ccにおいて唯一優勝したライダーで、そのレースは第8戦のイギリスGP、履いていたタイヤはダンロップだった。彼が開催サーキットとなったドニントン・パークを熟知していたこと(ちなみに彼はニュージーランド人)、タイヤを供給するUKダンロップもコースを熟知していることが優勝につながったと思われる。しかし、このイギリスGP以外ではオランダとオーストラリアで表彰台に上っただけで、あとは全く精彩を欠いた。
彼は(ほかの多くのライダーもそうだが)タイヤのエッジグリップに依存するライディングスタイルが特徴だった。当時のダンロップは構造的にサイドウォールが柔らかくて、ゆえにフルバンク付近で感触が頼りないという不満を彼は常々漏らしていた。そこで翌年はミシュランにスイッチ。前年以上の躍進が期待されたが、ここで彼は大きなトラップにはまることになる。ありていに言えば、ミシュランとダンロップの特性の違いに適応できなかったのだ。
当時のミシュランもエッジグリップは決して高いとはいえなかった。その代わりマシンをフルバンクから少し起こしたところのグリップは非常に優れていたので、ライダーはそれを生かすように走りかたを変える必要があった。いわゆる「ミシュラン乗り」と言われるスタイルだ。残念ながら彼はこの特性に適応することができなかったようで、シーズン半ばでそのシートをオーストラリア出身のギャリー・マッコイ選手に奪われるという厳しい結末となった。結局、彼のグランプリ挑戦はこの年をもって終わってしまった。
「たられば」になってしまうが、あのままダンロップを使い続けていれば彼のグランプリにおけるキャリアはもう少し長くなったのかもしれない。そういう意味でここがまさしく彼にとってのターニングポイントであったといえるだろう。そして彼の人生における輝かしい瞬間は、ダンロップタイヤにとっても二輪ロードレース最高峰クラスにおける目下最後の栄光となってしまったのである。(中編に続く)
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キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。