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投稿日: 2020.08.06 11:00
更新日: 2020.10.14 01:00

ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1985年(後編):初期には「物干し竿」と評されたマシンがごぼう抜き


MotoGP | ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1985年(後編):初期には「物干し竿」と評されたマシンがごぼう抜き

 さて8耐本番のレース経過については読者諸兄のよく知るところなので詳細は割愛するが、リタイアの原因になったのはケニー・ロバーツ選手に早くから「one valve too much」と指摘されていたバルブの折損だった。性能重視でバルブガイドを極限まで削り込んでいたので、バルブの振動による曲げ応力で疲労破壊に至ったのである。

 その辺りはポート研磨仕上げを行う担当者の裁量に任せていた部分もあり、これが後にトラブルの元になるとは誰にも予見ができなかったのである。ケニーはライダーとしての直感でスロットルとリヤタイヤのコネクションが悪いのはひとつ多い吸気バルブに原因があると看破していたのだが、その一つ多いバルブが当時のヤマハにとっては技術革新の証であったのはなんとも皮肉なことである。

 あまりの(悲)劇的な出来事にその場に居合わせた誰もが茫然自失の状態に陥る中、筆者はというと案外冷静だった。初期には「物干し竿」と評されたマシンが水を得たようにレース序盤から他車をごぼう抜きにしていく姿を見ていたので、何とかヤマハのロードレーサーとしてのDNAは継承できたな――と妙に安堵していたのを憶えている。

 ヤマハの4サイクルレーサーの黎明期はともあれこんな泥臭いスタートを切ったのだが、この時点では後に更に過酷な試練が待ち受けているとは思いもよらなかったのである。(1986年の鈴鹿8耐編に続く)

OW74の車体関係を担当したキタさん。当然サスペンションをはじめとするコンポーネント系も任された。で、現場に来ればこのとおり、リヤサスのオーバーホールもこなす。
OW74の車体関係を担当したキタさん。当然サスペンションをはじめとするコンポーネント系も任された。で、現場に来ればこのとおり、リヤサスのオーバーホールもこなす。

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キタさん:(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。


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