(中略)
ところがチェイサーがデビューした1997年、JTCCは世界共通ルールから一歩離れ、国内独自ルールを設ける。その結果としてオーバーフェンダーの装着が認可され、リヤウイングの大型化も認められることとなった。これも空力開発という面でトヨタやTRDのノウハウ蓄積に役立ったと柘植は言う。
「空力開発に関しては我々モータースポーツ部にも担当がひとりいて、TRDのエンジニアといろいろやっていましたね。まだまだ十分なノウハウがトヨタにもTRDにもなかった頃なので、様々な手作りパーツを試していましたよ」
「何かが分かるとさらに面白くなって、またいろいろ開発するという具合。当時はトヨタにとってJTCCのプライオリティが一番高くて好きなことができるから、エンジニアは楽しくてしょうがなかったと思いますよ」
(中略)
そうして迎えた2年目、チェイサーも大きな飛躍を見せると思われていたが、ホンダと日産が1997年いっぱいでJTCCから撤退。同年は開幕当初からメーカー間の争いが加熱し過ぎてキナ臭い空気がパドックに漂っていたのだが、最後は空中分解といってもいいような最悪の結果となった。
そのため、トヨタとしてもJTCCにリソースや予算を割く意味が失われ、開発計画が停止。1998年に向けて改良する予定だったアイデアはすべて雲散霧消するかたちとなり、活動の軸足は全日本GT選手権(JGTC)へと移っていく。
結局JTCC自体も1998年には終わり、チェイサーはたった2年で姿を消した。だがシリーズ消滅後、トヨタとTRDは残されたチェイサーをテストで走らせたと柘植は言う。
「クルマの基礎研究みたいなことを研究所のコースや十勝でやっていたんですよ。重心を下げるとどれぐらいパフォーマンスが上がるのかとか、重い状態でバラストを順にズラしていくとどうなるかとか、重量配分を変えるとどうなるかなど、チェイサーを使って我々とTRDとで一緒にレーシングカーの特性を学んだのです」
「JTCCまではレースに対するノウハウって、TRDよりもチームの方が上だったんです。その後、GTではチームからのアイデアや意見を吸い上げてTRDが開発をするスタイルを採っていますが、そういうムードになったのはJTCCあってこそ」
「また、チェイサーがFRだったことで、トランスミッションの考え方とかカーボン製のプロペラシャフトに出た問題とか、GTのスープラにはそのノウハウも活きました。JTCCから学んだことが、今のレーシングカーにもつながっているんです」

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