ネルソン・ピケが1988年『ロータス100T』を語る。最強のホンダエンジンを積みながらも低迷したワケ
Translation/Yutaka Mita
100Tは、空力的にも様々な問題を抱えていた。エンジニアが風洞の実験データにミスリードされるという不手際が起き、コムテックが管理するその風洞が実はマーチの所有と分かり、要らぬ憶測を生んだものである。「100Tに革命的なところなど、少しもなかった」とピケは言う。
「エンジニアはコスト最優先でやっていたはずだ。ドゥカルージュは空力をどうにかしたかった。前年モデルが横幅も高さもあって、空気抵抗が大きすぎるのが難点。900馬力がいきなり650馬力まで減らされたから、いかにトップスピードを維持するかに重点が置かれたのも無理はないよ」
「100Tは、直線ではトップレベルの速さを誇っていたが、残念ながらダウンフォースが決定的に不足していた。マクラーレンのコーナリングスピードは、まさに別次元だったね。これに少しでも近づきたければ、ウイングを立てるしかない。すると直線スピードが、10㎞/hから20㎞/hもダウンしてしまうんだ。こっちはウイングでダウンフォースを稼ぐしかないのに、マクラーレンやフェラーリは、フロア部分でものすごく稼いでいる感じだった」
トータルパッケージのなかで十全に機能を果たしているコンポーネントがひとつあるとしたら、それはホンダエンジンということになろう。この日本企業と共に働くのは、「いつだって楽しかった」とピケは語っている。
「当時最強のエンジンで、それも群を抜いていた。だからこそ、もっと良い成績を残せなかったのが情けなくてさ」と嘆息するピケ。このシーズン最大のトピックスは、燃料制限が一段と厳しくなったことで、ホンダはその影響をモロに受ける立場にあった。
「ロータスの燃費は決して褒められたものではなかった。シーズン前半は特にそうで、空気抵抗が大きかったせいだ。マクラーレンと比べたら、そりゃひどいものだった。ところがしばらくして、もうひとつ別の問題が持ち上がった。BMWで経験済みだったので、すぐにピンときたよ。レース後にインタークーラーを見るとタイヤカスがびっしり、ということがよくあった。つまり、エンジンに行く空気がそれだけ熱くなっているということだ。当然、パワーは失われる。ところが、皮肉にも燃費は俄然良くなるんだ」
「あれこれテストした結果、吸気温度が75度のときにそれほどパワーダウンせず、燃費もほぼベストに近いと分かった。今回は搭載燃料が一気に150リットルに減らされているから、厳しいなんてもんじゃない。BMWでこういうことがあったとホンダに教えてあげたら、最初は半信半疑だったけど、エンジンが壊れる不安の方が勝ったようだ。結局やってみて、彼らもそのとおりだと納得したのさ」
そのホンダから提携解消を告げられたロータスは、翌89年シーズンに向けて替わりのエンジンを手当しなければならなくなる。ピケが語ってくれたのは、当時ほとんど知られることのなかったストーリーだ。
「数年前にTAGがポルシェと組んでマクラーレンのためにやった、それと同じ手法をキャメルはロータスで使いたいと考えていたらしい。そこでポルシェを訪ね、翌シーズン向けに自然吸気エンジンを開発した場合、どれくらい費用がかかるか尋ねたんだ。しかし、思っていたより高額でキャメルは断念、ジャッドエンジンでいくしかなくなったというわけさ」
成績は散々なものだったが、ピケ自身は総じてロータスに悪い印象は持っていないようだ。
「トップチームがすべてそうであるように、ロータスも優秀なプロが大勢集まっていてレベルの高い仕事をしていた。私は、そんなスタッフと良好な関係を築くことができたと考えている。唯一そうはならなかったのがドゥカルージュで、私には評判倒れの人物としか感じられなかった」
「経験豊富で、いいマシンをもっと良くする術は心得ている。しかし、イチから新しく作るだけの技術的な知識を持っていたとは思えない。そもそもデザインする能力がないし、計算ができなかった。彼はコンセプトを決めるだけで、それ以外の作業はすべて他のエンジニアがやっていた。だから、問題が発生したときの解決能力なんて、最初から期待するのが無理なんだよ。
「今こうして思い返しても、100Tはいいマシンではなかった。そしてドゥカルージュは、問題をどう解決すべきか皆目見当もつかなかったんだ。ホンダが作った素晴らしいエンジンを手にしながら、マクラーレンよりも2.5秒も遅かった。同じエンジンなのにね。すると彼は88年限りでチームを去り、代わってフランク(ダーニー)が指揮を執ることになった。だから私も、ロータスでもう1年やってみようという気になったんだ。ウイリアムズ時代に一緒に仕事をして、彼のことはよく知っていたからね」
果たして、その決断は凶と出る。ホンダが抜けた穴はあまりにも大きく、翌シーズンのロータスはますます深刻なスランプに陥ってしまうことになるのだ。獲得ポイントわずか15点、コンストラクターズ6位でBグループ転落という結果は単なる序章にすぎず、ロータスがその後一気に崩壊へと向かうのは、後の歴史が伝えるところである。
惨状に業を煮やしたピケは、90年にベネトンのシートを獲得することに成功。これが彼のF1キャリアを締めくくる受け皿となり、さらに3勝を上乗せして、翌91年末にヘルメットを置いたのだった。
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『GP Car Story Vol.45 ロータス100T』では、今回お届けしたピケのインタビュー以外にも見どころは満載。このクルマを語る上で日本のF1としては絶対に外せない中嶋悟氏の存在。今回は川井一仁氏との対談でまだお互いに初々しさが残っていた時代を思い出しながら語り合っていただきました。
もちろん、最強ホンダV6ターボを開発されたホンダOBへも取材を敢行。設計を担当された河本通郎氏の他、ホンダとしての大成功の裏でロータス担当として当時悔しさも感じられた田口英治氏、西澤一俊氏御三方による座談会、ホンダを代表する立場として後藤治氏のインタビューからも、当時のホンダ、ロータス、そしてマクラーレンの関係が見えてきます。
ロータス側からは車体デザインを代表して、ともにGPカー初登場のティム・フィースト、ジーン・ヴァルニエ、レースエンジニアのスティーブ・ハラムとティム・デンシャム、チームマネージャーだったルパート・マンウォリングなど関係者のインタビューを多数掲載。
当時の関係者のなかにもここまで酷い結果に終わると思っていた人は少なく、また今回話を聞いた技術者たちからは必ずと言っていいほどあるひとりのドライバーの名が出てきます。そのドライバーが数周でもいいから100Tをドライブしてくれていたら、状況は全然違う方向へ行っていたのではないかと……そのあたりも実際に読んでいただき、機会が主の競技であっても『F1』は人の存在が多くに影響する人間ドラマであることを感じてもらえたらと思います。
『GP Car Story Vol.45 ロータス100T』は現在発売中。全国書店や インターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://shop.san-ei-corp.co.jp/magazine/detail.php?pid=12986)まで