──2003年は最終戦日本GPで好成績(バトンが4位、琢磨が6位)を挙げて、どうにかコンストラクターズ選手権5位に浮上してシーズンを終えました。これに対して、翌2004年は序盤戦から好調だった理由はどこにあったのでしょうか。
JB「あらゆることの積み重ねだと思う。どこかで大きな進歩があったわけではなく、コツコツと小さな進歩を続けていったからだ。テストカーの段階ですでに一定の改善が見られたし、006はそれよりもさらに良くなっていた。また、2003年との違いとして、シーズンを通じて多くの開発部品が投入されたことも大きな要因だった。優れたマシンで開幕戦を迎えられるのは良いことだが、そこから絶えず改良を続けていかないと、チャンピオンシップでの好成績はとうてい望めない」
JB「開幕当初の僕らのマシンは、あちこちに空力パーツを取り付けたライバルたちのものと比較すると、かなりシンプルな造りだった。けれども、どうすれば改善できるのかは分かっていたし、基本的な部分が正しいことを確かめてから、そういった空力パーツを投入していくことで、最終戦ブラジルGPまで競争力を維持できた。そうやってシーズンを通じて確実に進歩していき、マシンのポテンシャルを充分に引き出すことができたんだ」
──ドライバーとして、あるいはチームとして、ウインターテストでマシンの速さが確かめられた時点で、これならタイトルを争えると考えましたか。
JB「いいや、それはなかったね。2004年に限らず、僕は自分のキャリアを通じてシーズンが残り3分の1になるまでは、チャンピオンシップについて考えないようにしていた。個々のレースと短期的な目標だけを視野に入れて、毎回できるだけ上位に入ることを目指していたんだ」
JB「ただ、ブラウンGP時代の2009年だけは、これとは違ったアプローチを迫られた。僕らはシーズン序盤に、ライバルたちに対して大きなアドバンテージを築いた。だが、マシンの開発をする資金がないことは分かっていたから、かなり早い段階からポイントの状況を気にしていたし、コース上で争う相手も慎重に選んでいたんだ」
──当初、マシンはシンプルだったとのことですが、シーズン序盤から高い競争力を発揮しました。あなたは第2戦マレーシアGPと第3戦バーレーンGPでポディウムに上がった後、サンマリノGPではポールポジションからスタートして2位でフィニッシュしています。その頃には、自身のF1初優勝が2004年のうちに実現しそうだと考えていたのではありませんか。
JB「そうかもしれない。もうずいぶん前のことだから、はっきりとは覚えてはいないけどね(笑)。当時のフェラーリには、注文どおりにタイヤを作ってもらえる唯一のチームという、ものすごく大きなアドバンテージがあった。ブリヂストンのタイヤテストは、すべてミハエル・シューマッハーが受け持っていて、他のチームは彼のマシンとドライビングスタイルに合わせて開発されたタイヤを黙って使うしかなかったんだ」

JB「一方、ミシュランタイヤは予選でもレースでも文句なしの性能を発揮したが、ウイリアムズ、ルノー、トヨタ、マクラーレン、BAR、そしてジャガーといった多数のチームとともに開発をしていて、特定のマシンに合わせ込んだものではなかった。その点で、フェラーリとミハエルには明らかなアドバンテージがあり、彼らはそれを存分に活かした」
JB「ポールポジションからスタートしたイモラでも、僕は正直なところ勝てるとは思っていなかったが、ひとまずレース序盤をリードした。1周目の気分は最高だったよ。マシンをねじふせるようにドライブして、1周目のうちにある程度のギャップを作るという、思惑どおりの展開に持ち込めたからだ。そして、最初のスティントでのペースにも大満足だった。ところが、給油をして新しいタイヤに履き換えてからは、ミハエルのペースについていけなくなった」
JB「ご存知のように、レースでマシンをずっと完璧な状態に保つのは難しい。あの日は前日より風が強まり、予想よりもほんの少しだけ挙動に落ち着きがなくなっていた。結果として、マシンは少々乗りづらくはなっていたけれども、それでもなおペースはとても良かったんだ。ミハエル+フェラーリが、それよりさらに速かっただけでね」
──つまり、フェラーリのマシンが速すぎたと?
JB「そうだね。2004年のフェラーリは、明らかにベストマシンだった。6番グリッドや7番グリッドからスタートしても、レースで勝ってしまうんだからね。僕らに関して言えば、2004年のチーム全体のパフォーマンスも、自分のドライビングについても、心から誇りに思っている。開幕戦のオーストラリアGPから最終戦ブラジルGPまで、ずっと上位を争うことができたからね」
JB「とはいえ、唯一の心残りは、あの年に一度も優勝できなかったことだ。006はどこで勝ってもおかしくないマシンだったのにね。ただ残念なことに、ミシュラン勢の中で僕らが速かったレースではフェラーリとブリヂストンが一枚上手で、ミシュラン勢が有利だったレースでは、主にウイリアムズがその恩恵を受けるかたちになった。同様の理由で、マクラーレンとルノーもそれぞれ1勝ずつを挙げた。モナコGPでは、何とかして僕が勝ちたかったけどね。残り数周でヤルノ・トゥルーリ(ルノー)に追いついたのに、彼はまったくミスを犯さず、モナコは現在と同様にオーバーテイクが難しいコースだから、僕はまたしても2位に終わったんだ」
JB「アメリカGPも、本当なら僕らが勝つべきだった。レースでは一番速いマシンだったのに、僕はピットストップで小さなミスがあって、いくつかポジションを失った。そして、琢磨がイエローフラッグに関するレースディレクターの指示に正直に従っていた時に、フェラーリのふたりはそれを守らず、フルスピードで走ってピットに入った。それが響いて、琢磨はあのレースで勝てなかったんだ。フェラーリ勢より明らかに速かったにもかかわらずだ」

