──スパでのポールポジション獲得は、シーズンのハイライトでした。
アンダーソン「私にとって重要なのは、ルーベンスがスリックタイヤでポールを獲り、エディはウエットで4番手につけたことだ。つまり、どちらのコンディションでも、あるいは要求されるのがどちらだったとしても、うまく対応したことになる。それを見れば、誰も『ただ運が良かっただけ』とは言えないはずだ。ルーベンスにスリックを履かせるのは、ちょっとしたギャンブルだったが、結果としては文句なしの成功だった」
「私たちはスリックの方が良いかどうか、あるいは行けるかどうかを真剣に議論して、その選択を機能させる唯一の方法は、チェッカーフラッグが出る数秒前に最後のラップに入ることだと考えていた。彼がアウトラップを終え、さらにドライパッチがどこにあるかを確認するためにもう1周してから、スタート/フィニッシュラインを通過した時、セッションの残り時間は確か8秒だったと思う。彼はそのラップを見事にまとめてくれた。本当によくやったよ」
──スリックを選んだのは、あなたの判断だったのですか?
アンダーソン「私の判断とは言わないし、ルーベンスの判断だったとも言わない。いわばその両方だったんだ。彼は最初はスリックで行くのを嫌がった。私としては、その心づもりでいてほしかったのだが、彼は最後のランもウエットで走りたいと言った。実際、ウエットでもポールを獲れる可能性は充分にあったと思う。そして、クルマにはどちらのタイヤも取り付けずに、その場に座って彼と話し合った。『路面はどんどん良くなっている』と私が言うと、彼は『オーケー、やってみよう』と答えた」
「彼は私からの提案を受けてやろうと決めたが、自身の考えとしてはやりたくなかった。どちらかひとりの判断ではないというのは、そういう意味だ。私たちの間にはそんな関係が築かれていて、軽いおしゃべりのような会話で、どうするかを決められたんだ」
「私は絶対にスリックだと思っていた。コンディションは良くなる方向で、もう悪くはならないと予想できたからだ。ただ、スリックで行くとすれば、ルーベンスにはそれなりの決意が必要だ。クルマを走らせるのは、私ではなく彼だ。そして、白黒がはっきりした状況でもなかった。つまり、路面がどんどん乾いていき、誰もがスリックでコースに出て、いいタイムを出し始めたというような状況ではなかったんだ。間違いなく言えるのは、最後の周が勝負どころになることだった。そのためにはしっかりタイヤの温度を上げて、路面のグリップがいい場所を探し、より重要なこととして、コースを飛び出して終わらないように、まだ濡れている場所をしっかり確認しておく必要がある。それができればチャンスはあると思った」
「ウエットタイヤで行くなら、それほど難しい仕事ではなかっただろう。ミスをしないように気をつけながら、最初から最後までプッシュし続ければいい。だが、スリックタイヤならそれより2秒速く走れる可能性があった。そのラップの終わりまで生き残ってさえいればね」
■ドライバーラインアップ
──2年目のバリチェロはどれほど成長していましたか?
アンダーソン「やはり経験は役に立つ。彼は落ち着きを増し、ドライバーとしても進歩して、難しい状況に直面してもそれほど動揺しなくなっていた。シーズン半ば頃には、セナの事故や自分がブラジルを代表してレースをするのだという気負いが、やや重荷になっていたかもしれない。そして、エディはアイルランド人だから何かと優先されることがあり、ルーベンスはそれを少し不満に思っている節もあった。ドライバーとしての能力は並外れていたと思う」
──アーバインについては、どうでしたか?
アンダーソン「私は彼の大ファンだった。エディは包み隠しが一切ない男で、それがいいところなんだ。彼は本当のことを率直に言う。相手としては聞きたくないことかもしれないが、いずれはその人の耳に入ることだ」
「私はいつも彼の力になりたいと思っていた。1993年の終わりに彼がファクトリーを訪れた時のことだ。まだ翌年の契約が決まらなくて、彼は少々不安そうに見えた。私は2階のオフィスにEJ(エディ・ジョーダン)がいることを思い出し、オフィスに上がって、こう言ったんだ。『EJ、彼を惨めな状態から救ってやれよ。彼をチームに残したいと思っているんだろう? 今すぐ降りていって、『君と契約する』と伝えてやるんだ。いつまでも中途半端な状態に置いておくもんじゃない。彼の気持ちを落ち着かせて、本来の仕事に取り組ませるべきだ。何百万ポンドも持ってくるドライバーとか、エディと同じレベルのドライバーで資金を持ち込めるヤツなんて、いつまで待っても現れやしない。彼を残留させれば出費にはなるが、それは仕方がないだろう』。ありがたいことに、EJは私に言われたとおりにしてくれた。いつもの彼なら、まずやりそうにないことだったのにね(笑)」
「サーキットで彼が運転するロードカーに同乗したことがあるのだが、絶えず繊細な操作をしていて、まさに指先でクルマをコントロールするかのようだった。一方、エディ(・アーバイン)は一緒に乗っていると、こっちも手に汗握る感じでね。ゴリラのようにステアリングを握りしめ、縁石でも何でも強引に突っ切っていくんだ。クルマの動きに逆らわないルーベンスのドライビングとは対称的だった。結果としては同じレベルのパフォーマンスを発揮しても、彼らはまるで違ったスタイルでそこへ到達していた。ただ、長い距離を走るのなら、ルーベンスのスタイルの方が良いのは確かだ」
■トップ4に次ぐ位置へ
──チームは28ポイントを記録して、コンストラクターズ選手権を5位で終えました。要約すると、どんなシーズンだったと言えるでしょうか?
アンダーソン「1994年当時の私たちは、まだ小さなチームだった。上位のビッグチームとしてウイリアムズ、ベネトン、フェラーリ、マクラーレンがいたから、こちらはトップ8に入れば上出来だった。忘れないでほしいのは、当時はそんなに下の方までポイントは与えられなかったことだ。だから、下位チームはかなりいいシーズンを過ごしても、獲得できるのは1点か2点だけということも充分にありえた。それだけに、あの年の成績は大いに満足のいくものだったよ。
「イモラでの出来事やエディの出場停止があったシーズン序盤の短い期間だけでも、本当ならもっとポイントを獲れていたと思う。ルーベンスはイモラのレースに出ていないし、エディの代役が残した結果は、アンドレア・デ・チェザリスのモナコでの4位入賞だけだった。ああいった出来事さえなければ、エディとルーベンスはもっといいポジションを走っていただろうし、最終的にはより多くのポイントを記録していたに違いない」

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『GP Car Story Vol.51 Jordan 194』では、今回お届けしたアンダーソンのインタビュー以外にも見どころ満載。ただ、残念ながらエディ・ジョーダンのインタビューは今回実施できなかったため掲載できなかった。
ジョーダンの特集なので、もちろんエディへのインタビューは不可欠、それだけに過去のジョーダン特集同様に今回も取材のオファーはしていた。今回のアンダーソンの取材も担当してくれたアダム・クーパーが、エディ陣営にコンタクトを取ってくれたのだが、その彼から「癌を患っているエディの容体がかなり悪いようで、話が聞けないかもしれない」との連絡が入ったのは昨年末のこと。誰もそれから3か月足らずでエディが他界してしまう未来が来るとは想像すらしていなかったので、コンタクトだけは取り続けて、ダメな場合は他のプランを考える方向で動いていた。結局、それが叶うことはなかった。
取材できていたら、1994年はジョーダン・グランプリにとって大切なシーズンだっただけに、間違いなく興味深いエピソードを嬉しそうにたくさん話してくれていただろうと思い、そこだけは大変悔やまれるが、今はエディの冥福をただ祈るばかり。
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