更新日: 2021.04.14 01:09
「コンストラクターなんてやりたくなかった」。“6輪”F1マシンを世に送り出したケン・ティレルの意外な告白
独自マシンを作ることになったケンは、マトラが4輪駆動のF1を開発していた際に知り合ったイギリス人エンジニアに声をかけた。
「独自のマシンを作らなければならなくなり、そのデザイナーとしてデレック・ガードナーを呼び寄せたんだ。デレックは期待どおりの良い仕事をしてくれたよ。おかげでチャンピオンシップも獲れたからね」
ガードナーが設計したマシンは、71年にチーム初のコンストラクターズチャンピオンを、71年と73年にはスチュワートに2度のドライバーズチャンピオンをもたらした。その結果からもガードナーの起用は大成功だったといえる。
「ただ、困ったことも起きた。デレックが6輪車をやりたいと言い出したんだ。あれはP34を実戦デビューさせる数年前のことだった……」と、ティレルは苦々しそうに振り返った。
「デレックはことあるごとに『6輪車をやらせてほしい』と説得してきた。ステアリング機構が2セットついた6輪車なんて重いだけでメリットなどないと私は思ったので、彼が6輪車の話を持ち出すたびに逸らし、現行マシンに専念させるように仕向けていたんだ」
しかし、ガードナーの思いはケンの想像を超えるものだった。
「デレックの6輪車への思いはとても強く、私ももうはぐらかせなくなった。だから、現行マシンについての仕事は継続する傍ら、試作マシン製作を許可したんだ」
かくしてガードナーは、P34の試作マシンを製作。75年9月にイギリスのヒルトンホテルでお披露目され、同年10月にはシルバーストンでテストにこぎつけた。
「テストの結果、その試作マシンは私が危惧していたほど悪くはなかった。するとデレックは、『これで戦いたい』と言ってきた。でも、私にはやはり6輪車の重さなどのデメリットへの不安もあった」
そこでケンは、この6輪車がチームの通常プロジェクトから離れた存在であると印象づけるようにした。
「6輪車はデレックのプロジェクトとした。当時のティレルの一連のマシンのコードネームが『00(ダブルオー)』で始まるナンバーだったのに、6輪車だけがP34という名前だったのもそういうことだ」