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投稿日: 2018.12.18 17:00
更新日: 2021.04.14 01:09

「コンストラクターなんてやりたくなかった」。“6輪”F1マシンを世に送り出したケン・ティレルの意外な告白


F1 | 「コンストラクターなんてやりたくなかった」。“6輪”F1マシンを世に送り出したケン・ティレルの意外な告白

 ティレルP34は76年のスペインGPでデビューし、スウェーデンGPではジョディ・シェクターとパトリック・ドゥパイエが1-2フィニッシュするなどの活躍も見せた。

「P34の初年度は悪くなかった。確かにアンデルストープ(スウェーデン)ではワンツーにもなった。ただ、あそこはタイトコーナーが連続するコースで、P34にとって都合の良いコースだった。一方、他ではやはり重さによる不利もあった」

 77年シーズンになると、P34の凋落が始まる。

「2シーズン目になると、グッドイヤーが10インチのフロントタイヤの供給を嫌がってね。当時ミシュランが参入してきたためにタイヤ開発を急ぎたかった彼らは、P34だけのために他と異なるサイズのタイヤを開発、製造、供給を渋ったんだ」

「それでタイヤ開発が進むなか、P34のフロントタイヤだけは開発から取り残されてしまった。デレックは車体側でいろいろ対策を試みたが、どうにもならなかった。こうなると重さによる不利も目立つようになった」

 他チームと同サイズの後輪はより進歩した一方で、10インチの前輪は76年仕様のまま。これでP34はよりアンバランスなマシンとなった。これに対して、旧型カウルに戻す/77年型カウルながらフロントトレッド拡大により、前輪のグリップを増やすなどの努力も払われた。

 だが結果は向上しなかった。そして、ケンが当初から危惧していたようにマシンの重量も指摘されるようになった。

「これでP34のプロジェクトは終わり、デレックはチームを離れた。そして、私たちは別のデザイナー(モーリス・フィリップ)と翌78年のマシンを作った。それは通常の4輪車に戻され、シャシーのコードネームも再び『00』で始まる『008』としたんだ」

 かくしてP34のプロジェクトは終わった。P34はチャンピオン獲得は果たせなかったが、話題性ではまさにエポックメインキングだったことは間違いない。

「確かにそうだね、P34はマーチャンダイジングという点では成功だったかもしれない。製品化契約ではそこそこの契約金も稼いでくれた。それでレース活動が賄えるほどの額じゃなかったけどね」と言いながらケンは笑った。

 常にチャンピオン獲得を目指したケン・ティレルは、P34をこうしめくくった。

「レースでは成功作と言えなかったよ」

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