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投稿日: 2019.04.03 07:00
更新日: 2019.04.03 18:27

最新技術を備えたフェラーリ640。その設計には“天才”ゆえの古い手法も【ジョン・バーナード インタビュー中編】


F1 | 最新技術を備えたフェラーリ640。その設計には“天才”ゆえの古い手法も【ジョン・バーナード インタビュー中編】

――『639』は1988年5月に完成しました。その後、このクルマはどのように進化したのでしょうか?

JB:ずいぶん変わったよ。最初はバロッコで走らせた。北イタリアにあるフィアットのテストコースのひとつだ。不思議に思われるかもしれないが、初めてテストドライバーが乗って走った時には、シフトアップはフルオートマチックだった。加速をしてエンジンの回転が上がり、シフトアップが必要なポイントまで来ると自動でシフトする。そういう形で始まったんだ。

JB:言うまでもなく、難しいのはダウンシフトだった。まだスロットルの電子制御装置がなくて、自動的にブリッピングして回転を合わせることができなかったから、ドライバーが最適なシフトポイントを判断する必要があった。そして、そのタイミングを間違えると、後輪がロックする可能性があったんだ。システムによるクラッチ操作に問題はなかったが、ダウンシフトにはいろいろと難しい点があった。

JB:やがて、このギヤボックスの話が広まり始めると、ルールを決める人々が首を突っ込んで来て、オートマチックはダメだ、ドライバーがコントロールしなければいけないとか何とか言われた。毎度おなじみの“退化”を強いられたんだ!

■『639』と『640』

――レースシーズンの最中に6カ月もプロトタイプを開発できるのは、ずいぶん贅沢なことだったのではありませんか?

JB:実際に走るクルマがあるというのは、開発には有益だった。ただ、チームにそのキャパシティがあることが、必ずしもアドバンテージになるとは限らない。レースではターボエンジンを使っていて、639が走り始めた後、私はターボの方にも関与するためにマラネロへ通うようになった。そして、テーブルを叩きながら、なぜこれをやらない、なぜあれをやらない、どうしてこの新型ターボを使わないんだ、と彼らに訴え続けた。

JB:つまり、1988年のクルマへのテコ入れを始めたわけだ。レースチームがもたついているのを、私は黙って見ていられなかった。ハーベイ・ポスルズウェイト、ジャン-クロード・ミジョー、ピエロ・ラルディは、すでにチームを去っていた。みんな政治的なことにうんざりして辞めていったんだ。だから、私がレースの方にも関わるしかなくなり、まだ639のギヤボックスにはテストすべきことがいくつかあったのに、クルマを十分に開発できなかった。

JB:640は先代の設計思想を維持しながら、あちこちに手を加えて設計し直し、フロントサスペンションをコイルスプリングからトーションバーに変えたものだ。その頃には、私も風洞での空力開発に関与できるようになっていた。

――639と640の主な違いは、どんなところだったのでしょうか?

JB:639をデザインした時には、ボディがレギュレーションの最大幅以下に収まるようにシャシーの設計、ラジエターの配置と角度などを工夫して、実際にルールで許される幅よりも狭く仕上がっていた。639はナローなクルマだったということだ。

JB:640では、どんなサーキットにも対応できる冷却系にしたかったので、ボディの幅をいっぱいまで広げた。それと同時に、640はサイドポンツーンの上面をわずかに下げている。つまり、639は幅が狭くて高く、640はよりワイドで低かった。それからフロントサスペンションも見直して、トーションバー方式にした。私がこれを採用したのを見て、他のチームも続々とコイルスプリングをやめて、コンパクトで短いトーションバーを使うようになったんだ。これは640で進化したポイントのひとつだ。

JB:640も最初はエアボックスを低くして、ドライバーの頭の後方側面に設けたスロットから空気を取り入れていたが、のちに頭上にインテークがあるタイプのエアボックスに変えた。当初のデザインでは、十分なラム圧が得られなかったからだ。細かい変更点は他にもたくさんあった。モノコックも少し違うし、燃料タンクの容量も違っていたと思う。ほんの2インチほどだが、ハイノーズにもなっていた。ただ、シャシーの前端の下に小さな段差がある程度で、本格的なものではなかった。


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