更新日: 2020.04.27 10:50
『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』連動企画02/レイトンハウス、会心の一撃
ドイツのホッケンハイムへ行く頃には、私たちも随分と調子を上げていた。コンストラクターズ選手権では6位タイ、イヴァンはドライバーズ選手権で11位につけていた。最大限のダウンフォースが要求されるハンガリーでは、それまでより長いノーズと新型フロントウイングを投入し、イヴァンはエンジントラブルでリタイアしたが、グージェルミンが5位でフィニッシュした。
モンツァでは、イヴァンがウイリアムズのリカルド・パトレーゼと激しくホイール同士をぶつけ合うバトルを演じた末に5位入賞を果たした。イヴァンは勇敢で度胸のあるドライバーで、その美点を、まさにここというレースで存分に発揮してくれた。レース後、今季2度目の観戦に訪れていた赤城(赤城明/レイトンハウス代表)に傷んだホイールを見せると、彼はパトレーゼを抜いて5位を獲得したイヴァンの闘志に深い感銘を受けていた。
その週末には、赤城が隠していたあることが明るみに出た。それまで、彼とのやりとりはすべて通訳を通じて行い、私たちが言ったことに対して、いつも彼は表情ひとつ変えずに通訳されるのを待っていた。レイトンハウスのモーターホームはとても小さく、6人しか座れなかった。通常はふたりのドライバーとレースエンジニアのティム・ハロウェイとアンディ・ブラウン、チーム代表のイアン・フィリップスと私とで満員で、その週末はイアンが赤城に席を譲って立っていた。
そして私たちがレースのスタートに備えて出て行った後も、彼はモーターホームに残っていた。そこへ見目麗しいイタリア人女性ジャーナリストが登場し、彼にインタビューを求めた。女性のルックスには絶大な効果があるようで、赤城は文句なしの英語で彼女の質問に答えたという。
チームはコンスタントにポイントを取れるようになり、選手権で6番手につけていた。ポルトガルでの練習走行中に、私はピットウォールから最終コーナーを見ていた。イヴァンのクルマが立ち上がってくるのに続いて、アラン・プロストのクルマが見えたが、彼は明らかに速度を落としていた。
どうしてだろう、と私は不思議に思った。あとでわかったことだが、プロストはその奥の深い高速右コーナーに、イヴァンが自殺行為としか思えない速度で入っていくのを見た。そして、アクシデントが起きるに違いないと確信して、スロットルを戻していたのだ。
「あのクルマには本当に驚かされた」と、彼はラジオ局のインタビューで言ったそうだ。あの偉大なプロストに、あんな速度では絶対にコーナーを曲がりきれないだろうと思わせたのだから、大したものではないか。それも、ターボエンジンのマクラーレンと比べるとパワーのない私たちのクルマは、ずっと小さなウイングで走っていたことを考えればなおさらだ。
予選では3番手グリッドを確保したが、その直後に私はサーキットを離れた。イギリスに帰って1989年型車(CG891と呼ばれることになる)の仕事をしなければならなかったからだ。
空港にはアマンダ(ニューウェイの当時の妻)が迎えに来てくれて、私たちはヒースローから家までクルマを走らせながら、レースの様子をラジオで聞いていた。私は少し緊張していた。予選では過去最高のパフォーマンスを発揮できた。そして、レースではイヴァンがアイルトン・セナのテールに食らいつきながら、どうしても抜くことができずにいた。
だが、レースも3分の2を過ぎた頃、イヴァンはついに自分のやるべきことを理解した。少し間隔を空けた状態で最終コーナーに入り、ストレートでセナのスリップストリームを利用して、最後の瞬間にスリップから出るのだ。これは見事に決まった。イヴァンがセナをオーバーテイクしたのだ。
その瞬間に感じたこの上ない高揚感を、今もはっきりと憶えている。限られたリソースと、自然吸気エンジンで戦うちっぽけなチームが、アイルトン・セナの駆るマクラーレンを抜いたのである。これがどれほどすごいことか、わかりやすいように言えば、ホンダ・エンジンを積むマクラーレンはずば抜けた存在であり、マクラーレンが抜かれるとしたら、相手はもう1台のマクラーレン以外には考えられなかったのだ。それを自然吸気エンジンでやってのけたのだから、まさに夢のようだった。
しかもイヴァンはそのまま走り続けて、プロストに次ぐ2位でフィニッシュした。ついに私たちは初の表彰台に上がり、ようやくクルマのポテンシャルを見せ始めた。まさに痺れるようなレースだった。