──チームメイトのジョニー・ハーバートは第5戦サンマリノGPで107に乗りましたが、あなたはその翌戦モナコGPまで待たされました。
ハッキネン:あのチームにとって新車を走らせるのは大仕事だった。だから、チームメイトのジョニーか私か、どちらかが一足先に乗るというかたちで導入するしかなかったんだ。実際に新車を見て速そうだと思ったし、早く乗りたくて仕方がなかったよ。
コース上でのパフォーマンスもすごく良かったので大満足だった。私の記憶が正しければ、あのマシンのフロントサスペンションは、ダンパーとスプリングが1本しかないモノショックタイプだった。個人的には、あれはちょっといただけなかったね。特にバンプや路面のうねりが多いモナコGPには、ああいう左右の前輪が独立して動かないタイプのサスペンションは不向きだから、ひどく乗りづらくてコントロールが難しかったんだ。
でも、チームにはショックアブソーバーの調整を専門にしているイタリア人がいて、彼がいい仕事をしてくれたので、信頼性の確立にはそれほど時間はかからなかった。ただ、あのマシンはリヤの車高変化に敏感で、いつも極端に車高を下げて走る必要があり、それに関連した問題をいくつか抱えていた。

──それでも新しいマシンに乗ってからは、度々ポイント圏内に入れるようになりましたね。
ハッキネン:間違いなく言えるのは、あのマシンにはポテンシャルがあったということだ。だが、いくつかのファクターが、本来のパフォーマンスの発揮を妨げていたんだ。そのひとつがギヤボックスだった。私はマニュアルギヤボックスのせいで大きくタイムを失っていると、ずっとチームに訴えていた。言うまでもなく、ほかのチームのドライバーたちはステアリングホイールのパドルでギヤシフトをしていて、両手をいつもステアリングに置いておくことができた。その違いは大きかったね。エンジンのパワーに関してもライバルマシンに比べるととやや劣っていて、そこでもタイムを失っていた。
もうひとつの問題はステアリングの重さだ。あれには本当に難儀したよ。特に、高速コーナーではステアリングがものすごく重くなって、まともにステアできなかったほどだ。けれども、ジオメトリーを見直すには時間と資金が必要で、パワーステアリングの搭載なんて、重量と予算の両面でチームにとっては論外だった。でも、ドライバーに関して言えば、“彼”はいつもパーフェクトで素晴らしい仕事をしていたよ(笑)。
──つまり107を走らせるのは、身体的にタフな仕事だったということですか。
ハッキネン:ああ、本当にキツかった。体のトレーニングやエクササイズは熱心にやっていたけど、それでも全然足りなかった。マニュアルギヤボックス、パワーステアリングなし、それなりにダウンフォースがあってタイヤが太くグリップが高いとなると、体を慣らすにはとにかくドライブするしかない。だから、頻繁にテストをしているドライバーたちと体力面でおなじレベルを維持するのはなかなか難しかった。そういう意味でも厳しかったね。
──107でのベストレースをひとつ挙げてください。
ハッキネン:ハンガリーGPだと思う。確かベネトンのマーティン・ブランドルと順位を争い、最後はあと一歩でポディウムに上がれるところだった(結果は4位)。終盤に3番手のゲルハルト・ベルガーのマシンがトラブルに見舞われて、私は全力で彼を追っていた。そして最終ラップに入り、残すはあとコーナー3つというところで、ベルガーを抜こうと試みてスピンしてしまったんだ。私にとっては忘れられないレースだよ。1992年がいいシーズンだったのは間違いない。マクラーレンの首脳陣が私に目をつけ、「こいつを雇うべきだ!」と思ったのも、あの年だったわけだから。
──そう考えると、107はあなたのキャリアにとって重要なマシンと言えそうですね。
ハッキネン:そのとおり。いい仕事をしてくれたよ。すごくカッコいいマシンで、先ほども言ったように車重がとても軽かった。チームの予算やスタッフの人数を考えれば、あれだけ何度も上位に入ったのは、本当に素晴らしい成績だったと思う。もし、私たちがビッグスポンサーを獲得してもっとお金を使えるようになり、それに応じたマーケティングプランを展開していたら、ロータスは上昇気流に乗っていただろう。
けれども、それまでずっと無理を重ねてきたチームの人たちは、もう本来の力を発揮できなくなっていた。昼も夜もノンストップでハードワークを続けていたから、精神的にも肉体的にも限界を迎え、F1への情熱だけでは立ち行かなくなっていたんだ。スポンサーがつくまで何とか耐え忍ぼうと、みんなが仕事を続けていたけど、結局そんなスポンサーは現れなかった。チームの首脳陣も必死で動いていた。パートナーを探すために世界中を飛び回っていたんだ。どうしてうまくいかなかったのかは、私には分からないけどね。