Text:Adam Cooper<br>Translation:Kenji Mizugaki

──最初のBMWエンジンは、どのようなものでしたか?

ヘッド:パワフルだったのは間違いない。パワーに関しては問題なかったが、信頼性はとても低かった。結果として、予定外のエンジン交換の回数は、とんでもない数に達していた。ボルトやナットのひとつひとつが、もうそれぞれ自分の動きを覚えただろうと思えるほどにね。

 BMWはエンジンを組むのに大忙しだったと思う。私の記憶では、確か予定外のエンジン交換が64回あったからね。当時、レース前にエンジンを載せ替えるのは当たり前だったが、それに加えてプラクティスの途中で積み替え、金曜の夜にも積み替えていた。とにかくエンジン交換の回数が多かったし、BMWの方でも、それだけの数のエンジンを用意するのは大変なことだったと思う。

 また、最初の年のエンジンは、重量が130kgか132kgもあった。1997年にジャッド(ヤマハ)がアロウズに供給したエンジンは100kgほどに収まっていたから、BMWは当時としても、かなり大きくて重いエンジンだった。ただ、パワーはあったよ。その点に疑いの余地はない。

──では、シャシーはどうでしたか?

ヘッド:特別に良くはなかった。だが、とても穏やかなクルマで、手を焼かされるような厄介な癖はなかった。飛び抜けて優れたところはないにせよ、悪くはなかったと思う。縦置きギヤボックスを維持したのが良かったんじゃないかな。

■新人バトンの起用と評価

──1999年の終わりにかけてジェンソン・バトンが注目を集めるようになり、彼はテストでプロストにも乗りました。彼とブルーノ・ジュンケイラのどちらがウイリアムズのシートを得るか、テストをして決めた話はよく知られています。バトンをそのテストに呼ぶことになった理由は? そして最終的な決定は、あなたとフランクが行ったのですか?

ヘッド:この話をすることで名誉を傷つけるつもりはないのだが、フランクは昔からドライバー選択の権限は自分にあると思いたがっていた。私としても、彼が完全に間違った方向へ行こうとしているのでない限り、彼に主導的な立場を取らせることに不満はなかった。ドライバーの選択に関しては、私たちふたりが合意したうえで決めるという約束はあったが、フランクの考えには断固反対という場合を除いて、彼がしたいようにさせていたんだ。

 ジュンケイラは、すでにテストドライバーとして起用したことがあり、能力の高さは分かっていたから、彼を候補とする理由はあった。はっきりしていたのは、(アレッサンドロ)ザナルディの継続起用はないということで、私たちは彼の後任を探していた。そして多くの人が、ジェンソンの話をフランクの耳に入れていた。

 テストデーを設けて、午前はジュンケイラ、午後はジェンソンを走らせたのも、基本的にはフランクの考えたことだ。翌日の朝にはチームの新車発表が控えていて、フランクはそのテストで誰を起用するかを決めるつもりだった。ジェンソンが呼ばれて、『君を乗せることになった』と言われたのは、新車発表が始まる15分前くらいだったと思う。確かめたわけではないが、フランクは当然ブルーノにも敬意を払い、彼を呼んで『君を乗せることはできなくなった』と伝えたはずだ。

──ジェンソンとラルフ・シューマッハーを、どのように評価していたのでしょうか?

ヘッド:ラルフの方が優れていたという意味ではないが、彼がリードドライバーだったのは間違いない。実際、獲得したポイントの差が、そのことを示している。だが、ジェンソンはナイスガイで、気取ったところもなく、チーム内でみんなに好感を持たれていた。私たちはすでにファン・パブロ・モントーヤと契約し、アメリカで1年間CARTインディカーのレースをさせた後に、チームに迎えることになっていた。だから、翌年もジェンソンをキープするという選択肢はなかったんだ。みんな彼が大好きだっただけでなく、とても優れたドライバーであるとも思っていたから、本当に残念なことだった。

 彼は苦戦を続けていたベネトンへ移籍した。当時、彼らが使っていた広角バンクのエンジンは、それほどパワフルではなく、信頼性も低かった。しかも、ブリアトーレはジェンソンに、『おまえの立場は危うい』とか『いずれクビにする』と言い続けた。ジェンソンにとって、F1での2年目と3年目はとても難しいシーズンだった。

──1年目のジェンソンはまだ20歳で、前年までF3に乗っていました。当時、これはかなり珍しいことでしたが、彼は十分にいい仕事をしたと思います。

ヘッド:ああ、そのとおりだ。彼はものすごくスムーズで、クルマに無理をさせないドライバーだった。例えばスパなどのように、流れるようなレイアウトのサーキットを得意としていた理由の一部は、そこにあると思う。彼が優れたドライバーだったのは間違いない。

 そして、彼はまだ若かったが、ウブな若者ではなかった。女の子に関しては、もうすっかり目覚めていたと思うよ(笑)。彼の周りには、いつもかわいい女の子がいた。あれは生まれながらの本能というやつだね。また、誰もが知っているとおり、彼の父親はとてもいい人で、この世界のことをよく理解していた。これははっきりと言っておきたいのだが、ジョン・バトンはいかなるかたちであれ、出しゃばるということがなかった。いつも背後に控えて、ジェンソンを支えようとしていた。チームのみんなにも心から歓迎されていた。

 翌年ジェンソンと交替したファン・パブロは、ラテン系の火の玉ボーイと評されていて、この変更でチーム力が後退したとは思わなかったが、ジェンソンがチームに残る方が自然な成り行きかもしれないとは感じたよ。ただ、すでに2001年にはモントーヤをウイリアムズに迎える手筈が整っていたんだ。

──ジェンソンは着実に進歩していましたか? 彼はシーズン終盤のスパの予選で3位に入り、モンツァでも速かった。また、多くのレースでポイントを獲得しました。

ヘッド:そうだね。あの天賦の才能は見間違いようがなかった。とにかくスムーズなんだ。クルマについて、いろいろとしゃべりたがる方ではなく、出しゃばろうとすることもなかった。

 ドライバーが、クルマに関して役に立つ話をしてくれるのはありがたいことだが、彼はあまり積極的には口を開かなかった。デブリーフィングはふたりを集めて一緒にやっていた。ジェンソンは、ラルフの言っていることに同意する時だけ話に入ってきて、うなずきながら『僕もそう思う』と言うんだ。彼のドライビングスタイルは、ラルフとそれほど大きくは違わなかったようだ。実際、ジェンソンとラルフとでウイングのバランスを大きく変えたり、全然違うアンチロールバーを使ったりする必要はなかった。ジェンソンは、まずは学ぼうとしていたのだと思う。

 F3とF1のギャップは決して小さくない。2000年の終わりに、私たちはその年に使ったエンジンを新しい施設のダイナモに乗せてみた。もちろん、BMWの旧施設にもダイナモはあって、彼らはエンジンの本当の出力値を知っていたはずだが、実測で900馬力以上あった。240馬力ほどのF3から900馬力のクルマに乗り換えるのは、かなり衝撃的な経験だったと思うよ。

■手堅いラルフ

──では、あの年のラルフについては、どうですか? 彼はまず開幕戦のオーストラリアで、その後はスパとモンツァでもポディウムに上がりました。

ヘッド:手堅いドライバーだったね。担当エンジニアはクレイグ・ウィルソンだった。彼とラルフはいつもモーターホームの片隅に身を潜めていて、デブリーフィングの時も必ずふたり一緒だった。ラルフはまったくチームに溶け込もうとせず、みんなと仲間になるのを拒んでいるように見えた。それにひどく怒りっぽかったね。気難しいというのはちょっと違って、人としてあまり開放的な性格ではなかったんだ。少なくとも、リラックスした感じではなかった。

──フランツ・トストについては、どうですか?

ヘッド:フランツはラルフのマネージャーというか、実際にはカバン持ちのようなものだった。彼は当時から実直な人物だったが、ラルフのフランツに対する扱いは、ちょっと信じられないほどひどかった。ラルフがガレージに来て、朝食のミューズリー(シリアルの一種)をボウルに出すと、フランツが混ざっているレーズンを全部つまみ出してやるんだ。ラルフはレーズンが嫌いなんだと言ってね。現在の彼が、アルファタウリ(ミナルディを起源とするF1チーム)のボスとして、文句なしの仕事をしているのは確かだ。

2000年F1第17戦マレーシアGP FW22を駆るジェンソン・バトン(ウイリアムズBMW)
2000年F1第17戦マレーシアGP FW22を駆るジェンソン・バトン(ウイリアムズBMW)

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