更新日: 2021.04.14 01:08
危険分子扱いされたライコネンのF1デビュー秘話。初陣で6位入賞の快挙にも「前にまだ5人いる」
Translation:Yutaka Mita
「類い希な才能の持ち主だということは、キミの走りを見て一発で分かったよ」とツェンダーも言う。
「初めて乗る900馬力のマシン、しかも走り出して20周そこそこでペドロのコンマ8秒落ちは驚きと言うほかない。おまけに2日目に入ると、ペドロの初日のタイムを上回っていた」
「日が暮れる頃、ミハエル・シューマッハーがわざわざやって来て、『どっからあんな子を見つけてきたんだ?』と尋ねたくらいだからね。『後ろで見てたが、マシンコントロールがめちゃ巧いので驚いた』だとさ。ミハエルのこのコメントも、冗談抜きでチームの決断を後押ししたと思うよ」
「レースへの献身と情熱が桁違い、と感じさせるドライバーがほんの一握りだが存在する。口数が少ないのが彼等に共通した特徴で、声高に意気込みを語ったりしないぶんだけ、行動は雄弁というタイプ。キミがまさにそれなんだな」
「グループCを戦っていたときのミハエルもそうだったし、ロバート・クビサにも同じものを感じるね。欲しいものを絶対手に入れずにはおかない、という強いオーラを発散させている。キミのそれは、一途にスピードを追い求める純粋さの現れだと思うんだ」
■構想の主軸に据える
2週間後にやはりムジェロで行なわれた2度目のテストで、キミは終始ベルノルディを上回るペースを披露した。そうなると話は早い。ザウバーは、ライコネンを構想の主軸に据え翌年の戦略を練り始めた。相方を務めるニック・ハイドフェルドは、マクラーレンのテストドライバーからの、これまた気鋭の抜擢である。
「ムジェロのテストで採用を決めたのはいいが、スーパーライセンスを手に入れるのがひと苦労だった」とツェンダー。「FIAの同意を取り付け、バーニーからもOKをもらわないといけない。ライバルチームへの根回しはペーターの出番だが、これがまた一筋縄ではいかないんだな。方々から非難を浴びたと聞いているよ」
「あるチーム代表は、ペーターが正気を失ったとまで言いふらしたものだが、その半年後にはキミに唾をつけていたんだから呆れる。誰のことか、言わなくて分かるよね」
「また、キミ獲得は同時にレッドブルとの決別を意味していた。彼等はベルノルディを推していて、キミを採ることには反対だったのさ。でも、F3000で丸1年ベルノルディを担当した私から見ても、素質といい取り組み方といいキミの足元にも及ばなかったな」
■革命闘志のよう
政治的なゴタゴタから遠ざけておきたいという配慮も働いたのだろう。ザウバーはキミに丸一月の肉体強化訓練を施すべくオーストリアに送り出すことにした。その専属トレーナーとして指名されたヨゼフ・レベラーは、故アイルトン・セナのもっとも身近なスタッフとして長年仕え、その後ザウバーに身を寄せた優秀な理学療法士だ。
「チームが半ば強制的に進めたことがキミには面白くなかったのだろう。最初の2日間はヨゼフと口も利かなかったそうだよ。高低差のある山道をイヤというほど走らされて癇癪玉が破裂しそうだったのが、F1ドライバーに不可欠な準備だと諭したら素直に従ったみたいだね」とロバートソンは話すが、一方でペーターは、ライコネンには人にはない特別な何かがあるとも感じていたようだ」
「周りはF3やF3000を勝ち抜いてきた猛者ばかり。そんななか、年端もいかず孤軍奮闘する姿が、エスタブリッシュメントに立ち向かう革命闘士のようにも見えたのかもしれない。前例のない飛び級を果たしたことで、お門違いの批判を散々浴びた。モータースポーツを破壊するつもりか、といった投書がFIAに舞い込んだりしてね」
「ジャック・ビルヌーブなどは批判の急先鋒を務めていたっけ。結局キミは、メルボルンの開幕戦に出場するため、FIAが審査するヘレスのテストを受けなければならなくなった。難なくパスしたんだけどさ」
■「前にまだ5人いる」
12月に行なわれたそのテストは、ライコネンにとっては未体験のウエット走行も含まれていた。この難関を無事クリアしたことが功奏したのか、FIAが速やかにスーパーライセンス発給を決め、彼は2001年開幕戦のグリッドに並ぶ権利を手にしている。
ただし、マックス・モズレーFIA会長から“あくまでも暫定措置”との注文が付いており、メルボルンのパフォーマンス次第では取り消しとなる可能性もあったという。
迎えたオーストラリアGPは、ライコネンにとって通算24度目の公式戦。しかし緊張する素振りも見せず、予選13位の快走を披露した。
「メディアの注目度はそりゃあすごかった」とロバートソン。「新聞や雑誌はどれもヘッドラインで取り上げていたからイヤでも目に付く。我々が読んでいた記事を彼も目にしていただろうから、大変なプレッシャーがあったはずだ。しかし、それでもキミは自分のやり方を一切曲げず、普段どおりの自分を貫いた。傍で見ている限り、何物も彼を動揺させることはできない、と思えたものだよ」
ツェンダーによると、後に有名になる“アイスマン”のあだ名はまだ生まれていなかったとのこと。
「誰が言い出したのか知らないが、チームがそうしていて然るべきだった。あんなにクールでつねにリラックスしている。すべてのスタッフが気付いていたことだったからね。開幕戦のときも、もうグリッドに出る時間だというのに、どこにも姿が見えないということがあった。全員でキミを探し回るが、なかなか見つからなくてね。
オフィスの中に毛布で覆われた配膳卓があって、なんとキミはその下で、ペーパーナプキンのロールを枕に爆睡していたんだ。ヨゼフが揺り起こし、『あと5分で走り始めるんだぞ』と知らせると、『あと1分寝かせて』ときた。まったく、信じられないほどの強心臓だよ」
ライコネンがメルボルンで初陣を飾った2001年当時は、上位6位までにしかポイントが与えられない。7位でフィニッシュしたが、オリビエ・パニスが黄旗でオーバーテイクしていたことが発覚し、繰り上がり6位入賞でデビュー戦にしてGP初ポイント獲得という快挙を達成することになった。
「それが分かったときキミはもうサーキットを後にしていたので、ホテルに電話して伝えたんだ。初めてのレースで6位、1ポイント獲得はすごい、おめでとう、って。大喜びするかと思いきや、『でも僕の前にまだ5人いるし』と返ってきてあとの句が継げなかった」