ガショーがイギリス国内で使用が禁じられていた催涙スプレーを、ロンドン市内で乗車したタクシー運転手に吹き付けて留置所に入れられてしまったのだ。第11戦ベルギーGPまで1週間を切っており、代表のエディー・ジョーダンは代役を立てる必要に迫られた。
この時、エディーにはふたりの候補がいた。ひとりは当時まだ国際F3000のドライバーだったデイモン・ヒル、もうひとりはこの年のイギリスGPを最後にF1のシートを失っていたベテランのステファン・ヨハンソンだ。
ジョーダンはその成績とは裏腹にチームの財政事情は切迫しており、代役を雇うにもまとまった金が必要とされていた。そこでエディーがコンタクトをとったのがメルセデスだった。当時はまだF1に参入していなかったメルセデスは、ふたつ返事で彼からの依頼を承諾する。しかし、ドイツの自動車メーカーは条件をつけてきた。「金は調達してやるから、その代わりに我々のドライバーを乗せてくれ」と。それがミハエル・シューマッハーだったのだ。

1990年にドイツF3チャンピオンを獲得するものの、不思議とF1界でシューマッハーは知名度は低かった。当時、F1と接点を持たないメルセデスの子飼いドライバーだったことも少なからず影響していたかもしれない。
シューマッハーは191をテストするために急きょシルバーストンへと向かう。チームとしては彼のF1マシンへの適応能力を試したかったのだが、3周も走らないうちにレギュラーふたりを凌駕するタイムをマーク。現場は呆気にとられ「すごい逸材を掘り当てたぞ!」と、大慌てでエディーへ報告している。
しかし、当のエディーは経験のない新人がいきなり難攻不落のスパ・フランコルシャンからデビューすることへの不安が拭えなかった。「ミハエルはスパを知っているのか?」と、エディーはマネージャーのウイリー・ウェーバーに電話をかけ確認までした。「もちろんさ! ミハエルの生家はスパのそば。庭のように知り尽くしているよ」と返すウェーバーの言葉に安堵したエディーだが、実はシューマッハーには1度もスパを走った経験がなかったのだ。

それが初陣でいきなりの予選7位! 新人の快走に周囲はざわめいた。だが、決勝はわずか数百メートル走っただけで彼の191は止まってしまう。原因はクラッチトラブル。そこには小規模チームゆえの葛藤があった。
当時のジョーダンはAP社と契約し、クラッチの無償供給を受けていた。しかし、その契約には難点があり、チームが希望するものではなくAP主導で決められた製品が納品されていたのだ。
同社の主要製品は“3クリッククラッチ”と呼ばれたもので、ジョーダンが使用していたのはウイリアムズの中古品で信頼性の低い旧式の“2クリッククラッチ”。チームはそのクラッチに独自に手を加えることで幾分壊れにくくしつつ、ドライバーへの使用方法のレクチャーも徹底していた。
ただ、使い方さえ把握してしまえば大きな問題はなく、誰もがそれに慣れてしまっていた。この日のジョーダンの最大のミスは、シューマッハーへのレクチャーが徹底されていなかったことにあったのだ。
11番手スタートのデ・チェザリスが一時2番手を快走していたことを考えれば、この日の191は非常にコンペティティブで、シューマッハーの表彰台も夢ではなかったと思われる。