エンツォ・フェラーリからテクニカルディレクター就任の依頼を受けた時、ジョン・バーナードはすでにマクラーレンを離れる決心がついていた。しかし、「イギリスを離れてマラネロで働くというなら興味がない」と、エンツォに条件をつけた。当時の売れっ子デザイナーだったバーナードには、それくらいのワガママを言えるだけの影響力があったし、逆に当時のフェラーリには力がなかったと言えなくもない。冬の時代から脱却するために、英国からの風を取り入れなければならないほど、マラネロは追い込まれていたのだ。
エンツォはイギリスに開発拠点を置くことを許可してバーナードとの契約をまとめた。そして、GTO(ギルフォード・テクニカル・オフィス)が設立される。1986年末、バーナードは1988年投入予定の639の開発に着手した。
バーナードにはマクラーレン時代にフライ・バイ・ワイヤーをテストした経験があった。しかし、実はフェラーリにも同様のシステム開発経験がバーナード加入以前の時代にあったのだ。1979年の312Tに簡単なシフトレバー操作でギヤチェンジできるシステムを組み込み、実際にジル・ビルヌーブに実走テストまでさせていた。
ところがジルの評価は決していいものではなく、開発はそのまま終了してしまう。そこから約10年の歳月が流れ、バーナードがセミオートマの開発に取りかかった。ジルが酷評したシステムが生まれた時代との大きな違いは、電子油圧制御技術の発達にあるだろう。
バーナードはHパターンの縦置き7速ギヤボックスをベースに、シフトリンケージに代えて電子油圧制御を採用した。シフトノブは取り除かれ、代わりにステアリング裏に2枚のパドルを装着。バーナードが求めていたコクピットのスリム化が図られた。この手法は現代にもつながるF1テクノロジーの起源だ。
当初は639にセミオートマと新開発の自然吸気V12エンジンを搭載し、1988年を戦う予定だった。「1988年はどちらのマシンを使う?」と、エンツォはバーナードに問い詰めたという。バーナードはぶれることなく、現行のターボ車で1988年シーズンを戦うことを推薦した。
彼は1989年からの自然吸気規定に対処するため、1988年を犠牲にしてもNA車のプログラムを同時に進めるべきとだと主張した。だがそれは建て前であり、本音はエンツォからの1988年1月1日までに639を完成させろというオーダーに応えられないと判断したからなのだ。
1988年シーズンは1987年型を改良したF187/88で乗り切った。その間、639の開発は続いたが、完成は夏にずれこんでしまう。
「639はあくまでターボ車を発展させたもの。これを風洞にかけたら、空力特性が15%も向上していることが分かった。おかげでより進んだシャシー開発に着手できた。サスペンションジオメトリーにおいても作業効率は飛躍的に向上し、いいものが造れるようになったよ」と、バーナード。
これを基にさらなるモディファイが加えられ、1989年の本戦仕様としたのが640、別名F189である。縦に細長いラジエターインテークと前後に長いサイドポンツーンなど(ニコルスはこれらの流れをF92Aに踏襲したと語る)一見639のフォルムと酷似しているが、空力やシャシー剛性等を改善した全くの新車。
「639はエンツォを満足させるために急造したマシンだが、その発展型である640はさらに進化している」と、バーナードは自信を窺わせた。
しかしながらマンセルの僚友ゲルハルト・ベルガーは、新ギヤボックス以上に新開発のV12エンジンに不安を抱いていた。オフテストで彼はパワーとトルク不足を訴え続けた。開幕を迎えるまで、フェラーリの人間は一度として安堵感を得たことはなかったはず。それほど信頼性不足に悩まされていた。
案の定、640はシーズン中も壊れ続けた。マンセルは7回のリタイア中、6回がメカニカルトラブル、そのうち4回がギヤボックスだ。ベルガーに至ってはリタイア12回、うちメカニカルが8回でその半数4回がギヤボックスによるものだった。
信頼性に泣かされた640はセミオートマばかりがフォーカスされがちだが、実はもうひとつ、現代F1にも大きな影響を与えたテクノロジーが備わっていた。それがトーションバースプリングである。
機構そのものは決して新しいものではなく、フロントエンドエンジン車の時代や1970年代のロータスも取り入れたことがあるものだが、そのころはバネレートの安定が難しく、安定させるためには巨大なトーションバーを必要とした。結果、大きく、重くなってしまい、なかなか実用化されることなく姿を消していた。それをバーナードがコンパクトかつ合理的な仕組みを構築したトーションバーを開発。セミオートマ同様に現代にも生きるF1のスタンダードとなっていく。



