──あなたはプロストにとどまり、プジョーエンジンで2年間戦った後、2000年にジョーダンへ移籍して無限ホンダとの再会を果たしました。彼らの顔ぶれ、仕事の手法、モチベーションなどに変わりはありませんでしたか?
「ああ、まったくね。ジョーダンへ行ってみると、無限ホンダの関係者はみんな知っている人ばかりで、手法もアプローチも全然変わっていなかった。日本の人たちと一緒に仕事をするのは、私にとって少しも難しいことではない。それこそカート時代から、彼らの仕事の進め方を知っているからね。カート時代にはブリヂストンと多くの仕事をして、その経験から日本人のエンジニアやメカニックたちと、ごく自然に打ち解けられるようになったんだ。彼らとは、いつもいい関係を築いて仲良くやっていた。逆にチームメイトの多くは、日本人のメンタリティと仕事のやり方を理解できずに困惑していたから、その点で優位に立てたこともあると思う。私は彼らに対してどう振る舞い、どうコミュニケートすべきかを知っていた。日本の人たちはイギリス人、ドイツ人、フランス人とは意思の伝え方が違うから、それを理解していることは大きなアドバンテージになる」
──1997年の時点では、無限ホンダ・エンジンより優れていたのはおそらくルノーだけでしたが、2000年になるとメルセデスが大きく進歩し、フェラーリとの差もだいぶ縮まっていました。ジョーダンをドライブしてみて、もはや無限ホンダは勝てるエンジンではないと感じましたか。
「そんなことはないよ。少なくとも、私に言わせればね。彼らがジョーダンに供給したエンジンは素晴らしいもので、競争力もあったと思う。問題はエンジンではなく、シャシーの信頼性が低いことにあった。さらに言えば、あのシャシーは新品タイヤではすごいスピードで走れるのに、タイヤの消耗が信じられないほど早かった。3周もするとリヤタイヤが完全に終わってしまい、その後はトラクション不足に苦しみながら、何とか持ちこたえるしかなかったんだ。モナコGPとベルギーGPでフロントロウに並び、2~3列目につけることも多かったという事実が、あのシャシーに速さはあり、エンジンも決して悪くはなかったことを証明している」
「当時の私の印象として、エンジンは依然としてトップレベルで、シャシーにもポテンシャルはあったと思う。ただ、リヤタイヤの消耗が早すぎるという問題を解決できず、好成績をあげる機会を逸していたんだ」
──あなたがジョーダン時代に感じた、無限ホンダの強みはどんなところでしょうか。
「足りないものは何もなかった。レースで勝てるレベルのパワーがあり、ドライバビリティも文句なしだったから、コーナーやサーキットの性格を問わず、そのアドバンテージを生かして戦えた。優勝を争えるエンジンだったのは間違いない。メルセデス、フェラーリ、あるいはBMWのエンジンを使うドライバーたちと戦って、どこかで劣っていると感じたことは一度もなかった。結局のところ、ジョーダンが競争力のあるクルマを作れなかったために、無限ホンダは彼らに相応しい成績を得られなかったんだ」


