──話を戻しますが、1989、1990年の2シーズンの間に、ルノー・エンジンがどれだけ進化したと考えていますか。アップデートの回数は多く、おそらく4、5回は仕様変更がなされていたはずです。
「最初から優秀なエンジンだったことは確かさ。それが次第に信頼性を増していった……という回答になるかな。最後の頃は、ほとんどトラブル知らずのエンジンに仕上がっていたからね。型番でいうと、1991年にはRS3になっていた。当時は週末ごとに新品エンジンを3基も投入できたし、予選スペシャルなんてものもあった。最大で500㎞も走ればもうお払い箱で、今とは違い桁外れの贅沢ができたというわけさ。もっと分かりやすく言うと、週末は金曜・土曜・日曜と毎日、新しいエンジンを使用していたんだ」

──チームメイトとの関係性についても聞かせてください。ブーツェンが言うには、誰よりも仲が良く、最高のチームメイトがあなただということです。彼はどんな相棒でしたか。
「まあ、チームメイトは誰であっても、良い関係を保つ努力は怠らなかったけどね。でも、ティエリーとはそんなことは関係なく、最初からとてもうまくいった。そうでなきゃ休日を一緒に過ごしたりなんかするものか。友情は今でも続いているしね。2シーズンをともに戦う間にどんどん絆が深まっていって、一緒に作業することが増えていった。最終的にはサーキットだけじゃなく、それ以外の仕事でも協力し合うようになっていたからね」
──ブーツェンは1989年リオで行われたテストで大クラッシュを喫し、後遺症にその後1シーズン苦しめられたそうです。その事実は知っていましたか。
「いや、そのクラッシュは記憶にないし、後遺症の話も聞いていなかった。ただ、大きなクラッシュの影響は様々なかたちで残り、なかにはひどく回復に手間取ることがあるのは知っている。私自身、1989年にシルバーストンで大きなクラッシュを演じているからね。ラジエターが壊れて、そこから漏れた水で後輪がスリップするという、どうにもならない事故だったんだ」

■ハイテクとの相性
──あなたはこの2シーズンの間に、アクティブサスペンションの開発にも関与していましたか。おもにマーク・ブランデルがテストのかなりの部分を担当していたと聞いています。
「いや、関与していない。私がアクティブカーを初めてドライブしたのは、1991年末のエストリルだ。それ以降であれば、テストもかなり行った記憶があるけどね。エストリルで何日もテストを続けて、ある日ふと気がつくとマシンの競争力がとんでもなく高くなっていた。どれほどポテンシャルがあるんだろう……って、空恐ろしい気がしたものさ。そうした作業が実を結び、1992年に連勝街道をばく進して、タイトルを獲得することになるんだ」
──1992年にフルアクティブのFW14Bが投入されましたが、あなたはマンセルほどには電子制御の恩恵を受けていないように感じました。
「私の好みからすると、ノーマル仕様のFW14の方が合っていた。それがFW14Bにバージョンアップすると、俄然ナイジェルのスタイルの方が最適だということになったんだ。当然、タイトルは彼が手にすることになって、私もそれについてはまったく異議はないけれども、メキシコGPでのパドックでパトリックから言われたことが忘れられない。『君に理解しておいてもらいたいことはほかでもないタイトルの優先順位なのだが、ナイジェルが1番で君が2番だ。それを肝に銘じていてほしい』とね」
「それは関係ないだろって正直思ったよ。優先順位があろうがなかろうが、ドライビングスタイルがマシンに合っているという意味では、ナイジェルの方が若干上なんだ。わざわざ念を押さなくたって、今年はヤツがチャンピオンになるよって言い返したかったね。なんでまた優先とかつまらないことを言うんだって、不思議に思ったものさ」
──あなたは基本的に電子機器をあまり信じていなかったという気がするのですが、本当のところはいかがですか、これは1992年に限っての話でも構いません。
「信じていないという表現は少し大げさかな。ただ、高速コーナーでGがかかってステアリングが重くなるときに、私にはとても耐えがたい力がかかったとしても、ナイジェルなら力でねじ伏せることができたのは確かだ。あのガタイと腕力があったからこそコントロールが可能なシステムで、彼が私より速かったのは当然だったんだ。それは、1991年と1992年を比べてみればよく分かる」
「1991年はまだトラクションコントロールがなくて、スローコーナーの出口では私の方が明らかに速かった。スロットル操作の繊細さでは、負ける気がしなかったからね。それが1992年になるとトラクションコントロールの導入で、ナイジェルのスローコーナー出口での欠点がうまい具合にカバーされていた。しかもコーナリング中のダウンフォースは増える一方だったから、彼の豪腕がますます冴え渡ったんだ。つまり好き・嫌いということではなくて、ドライビングスタイルに合う・合わないの問題だったわけさ」
──1991年ではほとんどの場面でマンセルを凌駕していたわけだから、1992年の状況はさぞかし悔しかったでしょうね。
「悔しい・悔しくないという話ではない。プロのドライバーなんだから、契約した以上はチームのために働くし、チームにとって最善のことをやるだけさ。私は常にそうしてきたし、チームメイトを助けることもそれに含まれている。ワールドチャンピオンになれたらもちろん最高だが、私にはあいにくそのチャンスがなかった。でも、私は自分がやったことに十分満足している。文句はないよ」
──つまりウイリアムズ時代は幸せだったと?
「もちろんさ。私のF1人生で最良の日々だったと確信を持って言える。ブラバムにいたときもアロウズ時代も楽しかったが、何と言ってもウイリアムズでの成績が突出していたからね。やっぱり結果が出た方が楽しいに決まっているよ」
──最初のお話にもありましたが、ルノーV10時代を切り開く役目を担っていたのがあなたです。手塩にかけたエンジンはその後10年近くもトップであり続けました。そういう意味でも、まさに特別な時間ですね。
「まったくそのとおりさ。ルノーとの関係も素晴らしかったからね。デュド、クリスチャン・コンツェン以下のエンジニアともうまくいっていた。彼らと一緒に仕事をするのはいつだって楽しかったし、私の仕事ぶりも評価してもらえていたはずだ。お互いのリスペクトがあるから、とても快適だったよ」
「私は結局、ウイリアムズで5シーズン強を過ごしたわけだけど、私にプロジェクトリーダーを任せれば初期の成果を出せるとチームは判断し、実際にそうだったからこそ長く起用してもらえたのだと思う。ウイリアムズを離れることになったのも、入れ替わりでアラン・プロストがやってくると聞けば、腹も立たなかった。ルノーとしては、どうしてもフランス人チャンピオンがチームに来てほしかっただろうからね」
「私がベネトンに移籍したのは、それしか選択肢がなかったからだ。そうしたら契約書にサインした1週間後にナイジェルが心変わりしてアメリカへ行くと聞かされた。アイルトンがノーギャラでもいいから走りたいとフランク(ウイリアムズ)に言ったらしいね。それを盾にフランクがナイジェルにサラリーカットを持ち出して、彼を激怒させてしまったらしいんだ」
「その後、フランクはいろいろ説得しようとしたけど、ナイジェルは意地でもチームに戻ろうとはしなかった。それで急遽CARTインディカー行きを決めたらしいのだが、そういうことならなんで私に教えてくれなかったのかなあ……。そうすれば、ウイリアムズであと数年は走れたかもしなかったのにね」

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『GP Car Story Vol.39 Williams FW13B』では、今回お届けしたパトレーゼのインタビュー以外にも見どころ満載。FW13シリーズ開発総責任者のパトリック・ヘッドをはじめ、車体開発に従事したエンリケ・スカラブローニ、空力を担当したエグバル・ハミディ、ルノーV10のテクニカルディレクターを勤めたベルナール・デュドら技術陣に話を聞いたほか、パトレーゼとともに2シーズンFW13シリーズをドライブし、その間に自身のF1初優勝も経験したティエリー・ブーツェンがGP Car Story初登場。さらに同時期フルタイムテストドライバーとしてアクティブサスやセミオートマの先行開発に携わったマーク・ブランデルにも貴重なエピソードを語ってくれている。
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