──オーストリアGPでは、シューマッハーに勝利を譲るように指示されて物議を醸しましたね。あなたのF1キャリアの中で、最もつらい時期だったのではありませんか。
「はっきり言うと、私たちはF1の歴史を変えたと思っている。長い間、私がどれほどつらい思いをしてきたのか、周囲の人たちは徐々に理解するようになった。ただ、私にしてみればその前年の同じオーストリアGPでミハエルにポジションを譲らなければならなかった時の方がつらかった。デビッド・クルサードが優勝したレースだが、2番手につけていた私に、チームはミハエルとポジションを入れ替えるように指示した。結局、彼が2位、私が3位になった。レース後、チーム側と話し合った。私がトップに立っていたとしても、同じように指示を出したかと聞いてみたんだ。すると彼らは『絶対にそれはない。トップの座を譲れと頼むようなことはしない』と答えた。それならいいと、私は納得したよ」
「ところが、1年後にまさしく、そのような状況になった。無線でやりとりしている間、私は1年前の会話のことに触れたが、彼らは何も答えられなかった。何よりも私にはそれがショックだった。そのうち、私の契約書ではなく、ミハエルの契約書にはそれが明記されているということを知った。私の契約書には、彼に先を譲らなければならないといったことは何も書かれていなかった。そこで、私は周囲に隠し立てすることなく、堂々と指示されたことをやろうと決めた」
──チームがその一件から立ち直るのに、かなり時間がかかったのでしょうか。
「言うまでもなく、最も苦しんだのは私だった。人間は自分の気持ちや言葉に従わないものだというのを知るのは、精神的につらいものだからね。私は元々理性よりも感情を優先する方だ。つまり、私にとって重要なのは言葉だ。多くのことに関して、契約書よりも口頭で伝えられることの方が重みを持つという感じだった。だから、とてもつらかった。ただ、そのうち少しずつ優勝できるようになっていった」
──数レース後のニュルブルクリンクで優勝しました。
「あのレースで、どうしてチームがミハエルを先に行かせるように指示しなかったか分かるかい? 私が従わないと分かっていたからだ。そんなこともあったが、レース後、月曜日に移動することになっていたので、日曜日はニュルブルクリンクに泊まらなければならなかった。ミハエルも同じだった。ほかにすることが何もないので、私たちはメルセデスのパーティーに侵入することにしたのだが、あれは夢のような経験だったね。あの日、さまざまなドイツ語を学び、私の勝利を特別なものにしてくれたよ」

■12個のトロフィー
──とても信頼性が高いマシンでしたが、バルセロナではギヤボックスのトラブル、フランスではイグニッションと、2回ほど直前でスタートできなかったことがありましたね。
「その2レースは出走せずと記録されている。自分に非はないのでこれは受け入れがたかった。スタート時、ちゃんとその場に私はいたんだ。何もトイレに行ったまま、戻ってこなかったわけじゃないのにね」
──ハンガリーでも優勝を飾りましたが、何かそのときの思い出はありますか。
「そもそもハンガリーが好きじゃなかった。でも、気持ちを切り替えたんだ。ハンガリーのどこかに良いところを見出さない限り、きっとうまくいかないだろうし、うまくいかないのは、この場所が好きじゃないからということになってしまうと思ったからだ」
「そこで、その土地で楽しみを見つけ、地元の人々とも触れ合うことを心がけてみた。その後、サーキットのコーナーがひとつ改修されると、『いいじゃないか、気に入った』と自分に言い聞かせた。そして、ハンガリーで優勝した時には、『やった。これでさらに強くなって、一歩前進できた』と自分を鼓舞したよ」
──モンツァでの勝利は格別でしたね。
「まったく別次元だった。さらに2002年と2004年の勝利がよりかけがえのないものになったのは、2009年に白いマシンに乗ってモンツァで優勝した時だった。ファンの反応は多くの友人に祝福されているようだった。あのとき、私はただのフェラーリ・ドライバーではなかったと実感できたよ」


──インディアナポリスで、ミハエルはリードしていながら写真判定に持ち込もうとしたことで、あなたの勝利は物議を醸しました。
「あのレースについて実際にふたりで話したことはなかったけれど、かなりの接戦だったということは覚えている。実は、私の方がミハエルよりもペースが速いコースがいくつかあった。オーストリア、アメリカ、シルバーストンなどだ。それにあの日、私は自分の力を出せば勝てると思っていた。そして終盤、いきなり彼は少し左に寄ってペースを落とした。隣に並ぶスペースができたけれど、私も少しペースを落とした。自分でどうしたいのかよくわからなかったからだ」
「それから、ミハエルは少し強めにブレーキを踏んだ。私は行けると思ったが、スロットルを開けるのを少しためらった。ただ、勝ちは勝ちだと思い直し勝ちに行った。彼が勝ちたいと思わないのなら、私がプッシュすればいいだけだ。互いに同じように考えていたこともあり、最後はふたりともスロットルを開けた。写真判定になるよう調整しようとしても、そう簡単にできるものじゃない」
──気まずい勝利だと思いましたか? 少なくとも、シューマッハーはあなたにオーストリアでの1勝という借りがあったわけですが。
「もちろん、そんな勝ち方はしたくない。ただ、ミハエルは私が彼にしたようなことを自分でもやってみたかったのだろう。つまり、借りを返したかったのさ。結局私はF1で11勝したが、持っているトロフィーは12だ。アメリカGPのトロフィーをミハエルにあげなかった。私はオーストリアの時と同じようにするつもりだった。カップはミハエルのものだから渡そうとしたのだが、彼は受け取らなかった。そのとき、確かに君はたくさん持ちすぎているからと、ミハエルに言ったのを覚えている。だからこれも私のものになった。ありがたく頂戴したよ。まだ小さかった息子のエドアルドがカップの中に入っている写真が残っている」

