その好例と言えるのが、2013年ハンガリーGPで、グロージャンがターン4でアウトからフェリペ・マッサを抜いたときの一件だ。誰もが感嘆の声を上げた見事なオーバーテイクであり、グロージャンがトラックリミットの白線を踏み越えていたとはいえ、抜かれたマッサを含めて多くの人が許容されるべき追い越しと見なしていた。
しかし、スチュワードの立場からは、そのように考えることはできなかった。問題はグロージャンが白線を越えたかどうかという事実であり、もし彼が白線を越えたのなら、オーバーテイクそのものがどれほど見事であろうとルールに従ってペナルティを科さざるをえないのだ。
「一貫性」を保とうとすることの難しさは、そこにある。スチュワードに期待されるのは健全な判断を下し、良識が生かされるようにすることだ。バーレーンの場合で言えば、あの接触によって確かにハミルトンのレースは損なわれたが、ペナルティを科すべきかどうかの基準は「結果」ではなく、ドライバーが犯した過ちの「性質」だろう。
ボッタスは大胆ではあるが正当なアタックを試み、結果として失敗した。アクシデントの主犯は彼だったように見えても、そこには彼にはコントロールできない、いくつものファクターが複雑に絡んでおり「よくあること」として受け入れるべきだった。レーシングアクシデントと判定するために、両者の過失が必ずしも50対50である必要はない。
レースでは時として避けようのないアクシデントが起きる。それは関係したすべてのドライバーにとって不運なことであり、被害者がいるからには誰かがペナルティを受けるべきという話ではない。そして何よりも重要なこととして、激しいレースを奨励したいのなら、ギリギリの判断に基づく果敢なアタックの結果を咎めてはならないのだ。