Toshiyuki Endo

 セナが鈴鹿で存在感を発揮していた時代、その裏でまさかの鈴鹿0勝に終わった大物がふたりいた。オールドファンなら容易に想像がつくふたりだと思うが……。鈴鹿F1優勝偉人伝“番外編”として鈴鹿0勝の大物たちにも触れよう。

 手元調べで、F1通算20勝以上の17人中、鈴鹿での日本GPに出走経験がある者は13人、そのうち鈴鹿0勝は3人だ。顔ぶれは以下のとおり。

・アラン・プロスト(通算51勝)
・ナイジェル・マンセル(同31勝)
・マックス・フェルスタッペン(同30勝/2022年オランダGP終了時点)

 現役のフェルスタッペンに関しては2022年の日本GPを含めてこれから大いにチャンスがありそうだが、プロストとマンセルはそれなりの回数、鈴鹿F1に戦闘力あるマシンで出走していながら、ついに勝てなかった。

 セナのライバルであった彼らの場合、チャンピオン争いの土壇場、いや修羅場ゆえに“いろいろと”ドラマフルな展開もあって鈴鹿0勝に終わった、と評すべきだろう。実際、勝っていてもいい状況は多々あった。

 1987年、初の鈴鹿開催となったF1日本GP。マンセルは、当時のウイリアムズ・ホンダで同僚だったネルソン・ピケとのタイトル争いに逆転の可能性を残していたが、予選でクラッシュして決勝負傷欠場に。この時点でピケの王座が決まるという衝撃的な鈴鹿初回開催だった。

 1988年からはセナとプロストの王座争いが続く。1988年は前述のようにセナが優勝(プロスト2位)、マクラーレン・ホンダ同門対決を制して自身初のチャンピオンに輝いた。翌1989年、そしてプロストがフェラーリに移籍した1990年は、ともに鈴鹿での両者接触で事実上の決着がつくという格好になっている。プロストは2年連続リタイア。

 この3年間、プロストが鈴鹿で3連勝していてもおかしくはなかっただろう。3年とも予選は2番手。思えばその前、1987年もプロスト(マクラーレンTAGポルシェ)は予選2番手につけており、レース序盤のデブリ起因とされるパンクがなければ、勝ったゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)と優勝争いをしていた可能性はあったはずだ。つまり、プロストは4年連続で予選2番手から勝機を逸していたことになる。

アラン・プロスト(フェラーリ)
アラン・プロスト(フェラーリ)

 1990年は“セナプロ”やベルガー(マクラーレン・ホンダ)の早期戦線離脱によってマンセル(フェラーリ)が優勝確実と思われる形勢になったが、タイヤ交換してピットアウトする際にドライブシャフト破損でリタイア、という状況も発生していた(気負い過ぎ?)。

 1991年はセナ(マクラーレン・ホンダ)とマンセル(ウイリアムズ・ルノー)の戦いになり、マンセルのコースアウト、リタイアでセナの王座が決まる。

 翌1992年もウイリアムズ・ルノーで走ったマンセルは悲願の初王座を独走でゲット。その後に日本GPを迎え、鈴鹿初ポールを獲るが、レースでは僚友リカルド・パトレーゼを先頭に出してやるなどした末に、マシントラブルでリタイアした(この年の鈴鹿ではマンセルは自分が勝つ気はなかったわけだが)。

 1993年はプロスト(ウイリアムズ・ルノー)の引退と王座獲得が決まってからの日本GPだった。プロストは鈴鹿初ポールを獲ったものの、レースでは天候の変化も味方にセナ(マクラーレン・フォード)が勝利。

 1994年、ウイリアムズ・ルノーに移籍したセナが5月1日に亡くなったこの年の日本GPでは、セナの代走を務めたマンセルが4位。マンセルは鈴鹿に(決勝不出走の1987年を含めて)7回参戦して、決勝最高がこのときの4位である。しかも唯一の完走という……。

アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)を追うナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)
アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)を追うナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)
コースアウトを喫するナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)
コースアウトを喫するナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)

 プロストも鈴鹿では6回走って優勝なし、決勝最高成績は2回の2位だった(ともに優勝はセナ)。

 どうも鈴鹿の勝利の女神は当時、ブラジル勢の味方をしていたようだ。セナのみならず、ピケも1987年の王座決定に1990年の優勝と、鈴鹿でけっこういいところをもっていっている。なぜか欧州勢のプロスト、マンセルはバッドラック続きだった。

 続いて、チャンピオン獲得経験と鈴鹿F1出走経験の両方がある者のうち、、チャンピオンになる以前/以後を問わず鈴鹿で1度も勝っていないドライバー、という条件に照らすと、プロスト&マンセル&フェルスタッペン以外にもひとり、該当例が出てきた。

 1997年王者ジャック・ビルヌーブである。

 ただ、ビルヌーブには実質的なチャンスが少なかった。彼が真っ向から優勝を狙えるマシンに乗っていたのはルノーのワークスエンジンを積むウイリアムズに乗っていた1996~1997年の2年だけと考えられるからだ(彼のF1全11勝はこの2年間のもの)。

 その1996~1997年、鈴鹿でのビルヌーブは、1996年はタイヤが外れてしまう不運に見舞われてリタイア、1997年はフリー走行での黄旗無視に関連して“失格前提”での決勝出走になるという厳しい状況で、ほとんど勝ちようがなかった(1996年はスタート失敗もあったが)。

 こうして見てくると、鈴鹿F1ウイナーの称号を得るのは簡単でないことが分かる。16人の勝者、その栄誉を(改めて)称えたい。

“レッド5”ナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)
“レッド5”ナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)
ジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ・ルノー)
ジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ・ルノー)
2019年F1日本GPではスタート直後の接触で後退を喫したマックス・フェルスタッペン(レッドブル・ホンダ)
2019年F1日本GPではスタート直後の接触で後退を喫したマックス・フェルスタッペン(レッドブル・ホンダ)

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