タキ井上のF1参戦を実現させた史上最も優秀なマネージャー【タキ井上が語る敏腕F1マネージャー/最終回:前編】
本来であれば、1993年の全日本F3で最高位4位/ドライバーズランキング9位の僕にとって、次なるステップは全日本F3000選手権であったのかもしれない。しかし、全日本F3へ参戦する際、タキ井上は“日本の”自動車レース村”にへきえきとしたので、その後の全日本F3000参戦にはあまり積極的じゃなかった。「どこの馬の骨とも分からないヤツにシャシーは売れない」と、当時の全日本F3でラルトやレイナード全盛期にあり、その販売を一手に引き受けていたル・マン商会に販売拒否され、仕方なく僕はイタリア・ダラーラのF3シャシーについて日本で独占販売権を手に入れるとともにそれを走らせた。
また、「どこの馬の骨とも分からないヤツにエンジンは供給できない」と、当時の全日本F3で僕を排除する動きがあったのは事実だ。唯一、戸田レーシングの戸田幸男さんが無限エンジンの供給を快諾してくれたし、シャシーのメンテナンスも元F1チームのメカニックだった藤池省吉さんが面倒見てくれたから、タキ井上の日本での自動車レース活動が可能となっていた。
ということで、日本の“自動車レース村”に未来はないと確信していたタキ井上は、全日本F3000には見切りをつけて、1994年の国際F3000選手権参戦を目指して1993年7月に再び渡欧した。イタリア・シチリア島で同選手権・第4戦開催中のアウトドローモ・ディ・ペルグーサへ足を運び、当時のトップチームだったクリプトンエンジニアリング以下、すべてのオーナーや代表に挨拶して名刺を配りまくった。
そうした僕の行動に対する全チーム首脳の反応はと言えば……。「は? あんた誰? 話にならんよ」と鼻で笑われた。「あんた、何を言っているの? ここは国際F3000だよ」と呆れられた。唯一知り合いの居るチームでも、「そりゃあ無理だよ」と言われて、日本からわけのわからないドライバーがいきなり現地へ行って次々に断られても、「まー、なー」という感じで落ち込みもしなかった。
そのペルグーサ訪問前だったか後だったか途中だったか、シアーズには僕の国際F3000参戦の可能性を知らせていた。そしてイギリス・ノーフォークのパブで待ち合わせの約束を取り付けたら、ジーンズを履いた田舎のおにいちゃんといういでたちで彼はその店に現われた。来店早々に彼は、「タキ、お金はあるのか?」と訊いてきた。「もちろん、お金はある」と答えましたよ。そうしたら彼は、「よし! スーパーチームを作ってやる!」と。
でも、当時の彼はフォーミュラ・ボグゾールくらいのチームを運営しているくらいのショボイ感じだったのは間違いない。いまで言えば、フォーミュラ・リージョナルにも到達していない。つまりFIA-F4参戦チームがいきなりFIA F2参戦チームを作るようなもの。当時のタキ井上は無知の人間の強み、すなわち無謀の極みにあったのだろう。「スーパーチームを作るぜ!」というシアーズの言葉にシビレてしまったタキ井上は、彼にすべてを任せようと決めたわけだ(汗)。
まず、シャシーはレイナードとローラの二択だった記憶がある。もちろん、前年度のチャンピオンシャシーであるレイナードに決めるのはたやすかった。問題はエンジンだ。当時はフォード・コスワースACかザイテック・ジャッドKVかというこちらも二択だったが、1992年まで国際F3000を戦っていた無限ホンダの可能性にも一縷の望みを託していた。実際に無限から再び国際F3000用エンジンを引き出す可能性を探っていたが、「そんな古いエンジンじゃだめだ」とシアーズに言われて“はい、それまでよ”。付け加えれば、1993年の全日本F3最終戦で、「会社として再びヨーロッパで国際F3000へエンジンを供給するのは無理」と無限の本田博俊さんから告げられたハナシも書いておきたいと思う。
こうしてタキ井上はシアーズとともに、日本の英会話学校であるノヴァの資金を元手に、スーパーノヴァ・レーシングという国際F3000チームを立ち上げた。レイナード/フォード・コスワースACというクルマで、僕はヴィンチェンツォ・ソスピリをチームメイトに据えて、1994年の国際F3000に参戦したのであった。このスーパーノヴァは、FIA F2の前身であるGP2に2011年まで参戦し、A1GPやAUTO GPなどでもそれなりに実績を残した素晴らしいスーパーチームだった。なにしろ、新規チームにもかかわらずソスピリは1994年の国際F3000でドライバーズランキング4位、翌1995年にはドライバーズチャンピオンに輝いたのだ。
一方で、タキ井上は1994年の国際F3000でドライバーズランキング21位、最高位はポルトガル・エストリルでの9位に留まるわけだが、同年11月に鈴鹿サーキットで開催されたF1第15戦日本GPにシムテックF1からスポット参戦しちゃうのである(汗)。予選はポールポジションを獲得したミハエル・シューマッハー(ベネトン)から8秒近く遅れてギリギリ予選通過となるドベの26番手。予選落ちしたパシフィック・レーシングF1の2台は、そもそも決勝を走らせるつもりが無かったというのは後で聞いた話である(汗)!
決勝は豪雨に見舞われて、タキ井上はレース序盤に最終コーナーでスピンからのクラッシュ。ほぼ同じ個所でクラッシュした片山右京(ティレル)のクルマに危うくぶつかるところだった。では、なぜこんな僕が1995年のF1でフットワーク(アロウズ)F1のレギューラーシートを獲得できたのか? もちろん、そこにはデイビッド・シアーズのとんでもない人脈と力量があったわけで、その話は次回・後編でお届けしたいと思う。乞うご期待!
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