当時の私は地図を見て、サーキットはベルリン近くにあるものだと勘違いし、レンタカーは借りず電車で向かう計画を立てた。イギリスの電車と比べて、ドイツの電車は効率的、かつ信頼できると考えたからだ。
しかし、私が旧東ドイツへ足を運んだのはこれが初めてであり、東と西でどれだけ状況が違うのかを身をもって体験するはめになった。サーキットに向かう道中、乗っていた電車が故障し、周りを見渡してもなにもないような小さな村にぽつんと放り出されたのである。
駅で数時間後続の電車を待ち続けたあと、ようやくは私は前述の古びたバスに乗り込むことに決めた。
バスに乗り、自分が一体どんな状況に置かれているのかと考えにふけっていると、携帯電話がようやく圏外を脱出した。すると直後、私はローラ・カーズの広報担当者から大量のテキストメッセージが送られてきた。
そのメッセージには当時ローラのワークスドライバーだったジョーイ・フォスターがプラクティスセッション中に時速200km以上で後ろ向きにウォールに激突、フォスターは一命を取り留めたものの重傷を負っていると記されていた。
またローラの上層部が、私が彼らに確保をお願いしていたホテルの予約を見つけ、その部屋を息子に付き添うべくやってくるフォスターの両親に名義を変更したことも記されていた。
つまり私は自分がどこにいるのかもわからない状況だった上に、その日泊まるはずだったホテルも失ってしまったのだ。もちろん、この時自分が泊まるはずだったホテルについて文句を言うのは自己中心的すぎると思った。フォスターがクラッシュで大きな怪我を負ったことは確かだったからだ。
また、この時私はイーストサイド100を取材する理由についても考え直す必要に迫られていた。当時の私はローラ・カーズと多くの仕事を行っており、このときは彼らがB06/30フォーミュラ3シャシーに加えたアップデートに関する記事を執筆していたのだ。
具体的には、そのシャシーがオーバルでどんなパフォーマンスを発揮するかを取材するはずだった。しかし、私が取材しようとしていたそのマシンはプラクティスでクラッシュしてしまったという。
ちなみに当時のF3は“ミニF1”といった様相で、複数のシャシーサプライヤーとエンジンマニュファクチャラーが存在した。多くのパーツが認可されている一方で、当時このクラスでは技術開発の余地もまだ多く、オーバルコースをフルスロットルで走るということは、チームとマシンコンストラクターにとって特別かつ、非常に難しい技術的課題でもあった。
その結果、テクニカルな観点で見るとイーストサイド100はバラエティに富む大会だった。ローラ、SLC、リジェは最新マシンを、最先端のダラーラF306や他の旧型マシンと競わせるために送り込んでいたのだ。
実際のところ、F3のコンストラクターでイーストサイド100に参加するべくドイツ東部に遠征してこなかったのは、当時F3で最高のシャシーと空力パッケージを持っていると考えられていた童夢と、イギリスの選手権に集中することに決めたミゲールだけだった。
エンジンサプライヤーも多彩だった。大部分のマシンはオペルをベースにシュピースがチューニングを行ったエンジンを搭載していたが、HWAがチューニングしたメルセデスエンジン、ソデモがチューニングルノーエンジン(これは非常に遅いものだった)、ニール・ブラウンがチューニングした無限-ホンダエンジン、トムスのトヨタエンジンといったものも存在していた。
各チューナーはもちろん、ドライバー、チームもさまざまな主張を繰り広げており、実際どのエンジンがもっともパワフルなのかは誰にも分からなかった。