Q:1995年の優勝以前に、フルルートを8回ドライブしたというのは本当ですか?
「そうですね。1995年、トヨタは私に「ケニアに行き、5カ月間滞在してくれ」と言ってきました。そのため、私は1月の初めに現地に飛び、そこでたくさんのテストをしました。当時、私たちはいわゆる“高速テスト”と呼ばれるものを実行していました。ケニアの道路ではグループAカー、つまり適切なラリーカーですべてのコースの確認できました」
「私は8回にわたるレッキを行いました。つまり、2万4000km近くをラリースピードで走ったことを意味します。とはいえ、ケニアのラリースピードはスプリントラリーよりも少し遅いのです。なぜならクルマが耐えきれないので」
Q:当時のサファリラリーは他の選手権とどのように異なっていましたか?
「サファリは、モンテカルロ、GB(イギリス)、サンレモなどの他のラリーとは完全に異なっていました。道路は閉鎖されていなかったので、チームのヘリコプターで道の先に何があるかを教えてもらう必要がありました。地元のバスが来たとか、キリンが来たとか、そういった場合にはスピードを落とさなければなりませんでした」
「6速全開の状態でクレストを超えていたとき突然、反対側からクルマが来ることを想像してみてください。だからこそ追加のサポートが必要だったんです」
Q:イベントで何かミスはありましたか?
「3日目に、選択の余地があったために間違いを犯しました。ミシュランの新しいタイプのアンチパンクチャータイヤを使っていたのですが、そのタイヤがグリップ力が少し劣っていました。その影響で私はクルマを滑らせ土手にぶつかってロールしてしまいました。しかし、それは非常にゆっくりとした転がり方で、見た目だけのダメージで済んだのが幸運でした」
「私とアルネ(・ヘルツ、コドライバー)がクルマの外い出ると、突然3、4人のマサイ族がやって来ました。私たちはクルマを道路に戻しふたたびラリー続けました」
Q:それはラッキーでしたね! ラリーで優勝した時はさぞホッとしたでしょう
「ええ、それはもう! ロールした後、すぐに私のラリーが終わったと思いました。でも、コースに戻ったとき、『ああ、私はついている。今は勝つチャンスがある』と思いました。私たちはサービスですべてを修復し、完璧なドライビングが可能になりました」
「その時点で私と(篠塚)建次郎のギャップは20分くらいでした。20分はまだキャッチすることが可能だったと思いますが、彼もまたいくつかのダメージを受けて遅れていました。そのため私はリラックスしてクルージングしていました」
