F1 チーム詳細

F1 | レーシングポイントF1チーム 2020年

レーシングポイントF1チーム 2020年

イギリス

●チーム本拠地:イギリス・シルバーストン
●デビュー:2018年第13戦ベルギーGP
●活動年:2018年~
●出走数:21
●勝利数:0
●PP獲得数:0
●コンストラクターズタイトル:0
●ドライバーズタイトル:0

2019年F1成績
●PP:0回
●優勝:0回
●FL:0回
●表彰台獲得率:0%
●入賞率:40.47%
●完走率:90.47%

●主要チームスタッフ:
オットマー・サフナウアー(チーム代表&CEO)
アンドリュー・グリーン(テクニカルディレクター)
アンディ・スティーブンソン(スポーティングディレクター)
スティーブ・カーナウ(コマーシャルディレクター)
トム・カマロー(チーフレースエンジニア)

■レーシングポイント プロフィール

 オーナーシップの交代と、それに伴うチーム名変更が何度も起きてきた歴史を持つ。

 起源となるのは、1991年にF1に参入した『ジョーダン・グランプリ』だ。創設者のエディ・ジョーダンは、いまは英国TV局のF1解説を行なっていることでも知られる。

 銀行勤めだったジョーダンは、22歳でカートを始めるという異色の経歴ながら、それでもレーシングドライバーとしてF3までは進出した。そして31歳となった79年の終わり、『エディ・ジョーダン・レーシング(EJR)』を組織して、マネージメント側に舵を切る。

 運営手腕は確かで、EJRを87年に英国F3、89年に当時F1直下の国際F3000選手権(現在のFIA-F2にあたる)でドライバーズタイトルを獲得するほどの有力チームに育て上げた。

 そうなると次はF1がターゲットとなり、内外にジョーダン・グランプリ旗揚げを宣言して、参戦準備を開始する。91年の開幕でF1に歩を進めると、当時6位までと現在よりハードルの高かった初入賞は5戦目で2台が4、5位となって果たされた。また、第11戦ベルギーでは新人ミハエル・シューマッハーにシートを与え、のちの7回チャンピオンのデビューチームとなっている。

 この年のコンストラクターズランキングを5位で終えると、F3000チームの活動は停止。翌92年に向けてはフォードに代わり、ヤマハとエンジン契約を結ぶ。だが一転して不振に終わり、ヤマハとの関係は1年で解消した。

 その後2年間はプライベートチューナーのハート・エンジンで闘い、2年目の94年には鈴木亜久里の1戦のみスポット起用もあった。

 非力なエンジンながら初表彰台と初ポールポジションを達成した94年のシーズンは高く評価され、翌95年からはプジョーとのワークス契約に成功する。このパートナーシップは複数回の表彰台を記録するなどしたが、3年で終了。98年からは無限-ホンダのユーザーとなった。

 その98年には96年王者のデイモン・ヒルが加入。第13戦ベルギーで、チームに参戦8年目での初優勝をもたらす。その勢いは翌99年も続き、新加入ハインツ-ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げて終盤までドライバーズ王座争いに絡み、チームのコンストラクターズランキングも過去最高の3位まで押し上げた。なおこの99年、チーム国籍をジョーダンの出身アイルランドから英国に変えている。

 だが2000年は未勝利に終わり、01年にはカスタマー契約とはいえ、ホンダのワークススペックにエンジンを切り換えた。このホンダとの関連から、02年は1年目の佐藤琢磨を起用した。なおチーム成績は上向かず、スポンサーの離脱等もあって、資金繰りは一気に悪化し始めた。

 03年は琢磨も移籍し、ホンダに代わりフォード搭載。第3戦のブラジルでジャンカルロ・フィジケラの奇跡的な優勝はあったが、チームの年間ランキングは9位まで沈む。04年は売却説が絶えないなかで1年を過ごし、翌05年1月にロシア資本の『ミッドランド・グループ』による買収が発表されてチームは創設者の手を離れた。

 05年はフォード撤退に伴いエンジンをトヨタとし、登録手続き上の理由でジョーダン名のままで参戦。06年に『MF1(ミッドランドのM+F1)レーシング』と改称された。本拠地はシルバーストンで維持されたものの、チーム国籍はロシアに移った。

 だが低迷を脱することはできず、シーズン終了間際には、早くもチームがオランダのスポーツカー専門メーカー『スパイカー・カーズ』に転売。翌07年からチーム国籍をオランダとし、『スパイカーF1』での参戦を始める。

 エンジンはフェラーリにスイッチしたが、この新体制も不発で、10月にはインドの企業家ビジェイ・マリヤによる買収を受けた。08年からは『フォースインディア』名で、チームもインド国籍に変更された。

 1年目は低迷したものの、マリヤはチーム運営にも積極的に関与。翌09年にエンジンをメルセデスに変更する等の決定を行ない、体制の立て直しを図る。

 09年型はとにかく直線スピードの速いクルマに仕上がり、その特性を活かして第12戦のベルギーでフィジケラがポールポジションから2位フィニッシュという殊勲で、組織再生の第一歩を記した。この年は2回の入賞に留まったが、翌10年からはコンスタントなポイント獲得が望める状況まで進化する。ついに16年にはコンストラクターズランキングを4位まで上げ、17年にもそのポジションを維持した。

 こうしてチームは中団トップの地位を固めるかに見えたが、マリヤの本業ビジネス不振が暗い影を落とす。チームへの資金流入は止まり、18年夏には破産状態となって管財人の下に置かれた。

 これを救ったのが、当時ウイリアムズのドライバーだったランス・ストロールの父ローレンス。彼を中心とするコンソーシアム(企業家グループ)がチームを引き受け、『レーシングポイント』に改称して存続させた。フォースインディア体制下で稼いだ18年コンストラクターズポイントは剥奪とされたが生き残りには成功し、英国籍チームに戻っての活動を続ける。

公式URL:
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