イギリス
生年月日 | 1990年1月26日 |
国籍 | メキシコ |
身長 | 175 cm |
体重 | 68 kg |
生年月日 | 1998年10月29日 |
国籍 | カナダ |
身長 | 182 cm |
体重 | 70 kg |
●チーム本拠地:イギリス・シルバーストン
●デビュー:2018年第13戦ベルギーGP
●活動年:2018年~
●出走数:21
●勝利数:0
●PP獲得数:0
●コンストラクターズタイトル:0
●ドライバーズタイトル:0
2019年F1成績
●PP:0回
●優勝:0回
●FL:0回
●表彰台獲得率:0%
●入賞率:40.47%
●完走率:90.47%
●主要チームスタッフ:
オットマー・サフナウアー(チーム代表&CEO)
アンドリュー・グリーン(テクニカルディレクター)
アンディ・スティーブンソン(スポーティングディレクター)
スティーブ・カーナウ(コマーシャルディレクター)
トム・カマロー(チーフレースエンジニア)
オーナーシップの交代と、それに伴うチーム名変更が何度も起きてきた歴史を持つ。
起源となるのは、1991年にF1に参入した『ジョーダン・グランプリ』だ。創設者のエディ・ジョーダンは、いまは英国TV局のF1解説を行なっていることでも知られる。
銀行勤めだったジョーダンは、22歳でカートを始めるという異色の経歴ながら、それでもレーシングドライバーとしてF3までは進出した。そして31歳となった79年の終わり、『エディ・ジョーダン・レーシング(EJR)』を組織して、マネージメント側に舵を切る。
運営手腕は確かで、EJRを87年に英国F3、89年に当時F1直下の国際F3000選手権(現在のFIA-F2にあたる)でドライバーズタイトルを獲得するほどの有力チームに育て上げた。
そうなると次はF1がターゲットとなり、内外にジョーダン・グランプリ旗揚げを宣言して、参戦準備を開始する。91年の開幕でF1に歩を進めると、当時6位までと現在よりハードルの高かった初入賞は5戦目で2台が4、5位となって果たされた。また、第11戦ベルギーでは新人ミハエル・シューマッハーにシートを与え、のちの7回チャンピオンのデビューチームとなっている。
この年のコンストラクターズランキングを5位で終えると、F3000チームの活動は停止。翌92年に向けてはフォードに代わり、ヤマハとエンジン契約を結ぶ。だが一転して不振に終わり、ヤマハとの関係は1年で解消した。
その後2年間はプライベートチューナーのハート・エンジンで闘い、2年目の94年には鈴木亜久里の1戦のみスポット起用もあった。
非力なエンジンながら初表彰台と初ポールポジションを達成した94年のシーズンは高く評価され、翌95年からはプジョーとのワークス契約に成功する。このパートナーシップは複数回の表彰台を記録するなどしたが、3年で終了。98年からは無限-ホンダのユーザーとなった。
その98年には96年王者のデイモン・ヒルが加入。第13戦ベルギーで、チームに参戦8年目での初優勝をもたらす。その勢いは翌99年も続き、新加入ハインツ-ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げて終盤までドライバーズ王座争いに絡み、チームのコンストラクターズランキングも過去最高の3位まで押し上げた。なおこの99年、チーム国籍をジョーダンの出身アイルランドから英国に変えている。
だが2000年は未勝利に終わり、01年にはカスタマー契約とはいえ、ホンダのワークススペックにエンジンを切り換えた。このホンダとの関連から、02年は1年目の佐藤琢磨を起用した。なおチーム成績は上向かず、スポンサーの離脱等もあって、資金繰りは一気に悪化し始めた。
03年は琢磨も移籍し、ホンダに代わりフォード搭載。第3戦のブラジルでジャンカルロ・フィジケラの奇跡的な優勝はあったが、チームの年間ランキングは9位まで沈む。04年は売却説が絶えないなかで1年を過ごし、翌05年1月にロシア資本の『ミッドランド・グループ』による買収が発表されてチームは創設者の手を離れた。
05年はフォード撤退に伴いエンジンをトヨタとし、登録手続き上の理由でジョーダン名のままで参戦。06年に『MF1(ミッドランドのM+F1)レーシング』と改称された。本拠地はシルバーストンで維持されたものの、チーム国籍はロシアに移った。
だが低迷を脱することはできず、シーズン終了間際には、早くもチームがオランダのスポーツカー専門メーカー『スパイカー・カーズ』に転売。翌07年からチーム国籍をオランダとし、『スパイカーF1』での参戦を始める。
エンジンはフェラーリにスイッチしたが、この新体制も不発で、10月にはインドの企業家ビジェイ・マリヤによる買収を受けた。08年からは『フォースインディア』名で、チームもインド国籍に変更された。
1年目は低迷したものの、マリヤはチーム運営にも積極的に関与。翌09年にエンジンをメルセデスに変更する等の決定を行ない、体制の立て直しを図る。
09年型はとにかく直線スピードの速いクルマに仕上がり、その特性を活かして第12戦のベルギーでフィジケラがポールポジションから2位フィニッシュという殊勲で、組織再生の第一歩を記した。この年は2回の入賞に留まったが、翌10年からはコンスタントなポイント獲得が望める状況まで進化する。ついに16年にはコンストラクターズランキングを4位まで上げ、17年にもそのポジションを維持した。
こうしてチームは中団トップの地位を固めるかに見えたが、マリヤの本業ビジネス不振が暗い影を落とす。チームへの資金流入は止まり、18年夏には破産状態となって管財人の下に置かれた。
これを救ったのが、当時ウイリアムズのドライバーだったランス・ストロールの父ローレンス。彼を中心とするコンソーシアム(企業家グループ)がチームを引き受け、『レーシングポイント』に改称して存続させた。フォースインディア体制下で稼いだ18年コンストラクターズポイントは剥奪とされたが生き残りには成功し、英国籍チームに戻っての活動を続ける。
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