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スーパーフォーミュラニュース

投稿日: 2015.11.20 00:00
更新日: 2018.02.17 11:42

多摩川SW回顧展トークイベント 地元・石浦も出席


 東京都心から横浜方面に向かって東急東横線に乗ると、多摩川駅を出た直後に多摩川を渡る。進行方向に向かって右側の車窓を眺めると、新丸子側の河川敷に、コンクリートで出来た構造物を見ることができる。これが、日本最古の常設サーキットの面影である。

 このサーキットは、多摩川スピードウェイ。鈴鹿サーキットが出来上がる30年近く前の1935年末(一部には1936年との説もあり)に完成した、日本最初の常設サーキットである。レースの初開催は1936年6月、第1回全日本自動車競争大會と銘打たれたこのレースには、本田宗一郎ら後に日本の自動車産業の基礎を作り上げることになるそうそうたるメンバーが出走していた。

 来年は多摩川スピードウェイでレースが初めて開催されてから80年という節目の年。これを記念した『多摩川の歴史遺産 モータースポーツ発祥の地 多摩川スピードウェイ回顧展』が11月21日と22日の2日間にわたって、田園調布せせらぎ公園集会室・多目的室で行われる。これに先立ったトークイベントが行われた。

 1周1200m、総工費8〜15万円(当時)をかけて建設された多摩川スピードウェイ。最初のレースには、ひとり1円という当時としては高額の観戦料だったにも関わらず、実に3万人もの観客が訪れたという。そして本田技研工業を立ち上げる前の本田宗一郎が浜松号で、その他にも簗瀬自動車(現在のヤナセ)がレーシングカーに改修したインヴィクタ、日本の自動車産業黎明期に活躍したオオタ自動車(現在レーシングカーのパーツを多く手がけるタマチ工業は、オオタ自動車創業者の三男である太田祐茂氏が立ち上げた会社)、現在の日産自動車のルーツであるダットサンらが参戦していた。レースに勝利したのはオオタ号で、敗北を喫したダットサンは、第2回のレースでの必勝を期して、開発に勤しんだという。まさに現在の日本の自動車産業の基礎ともなった人物・企業が参戦していたレースだと言え、今回の回顧展の主催者が「多摩川スピードウェイなくして、日本の自動車産業の発展はなかった」と言うのも頷ける。

 しかしその多摩川スピードウェイは、不遇とも言える運命を辿る。当時は戦争の足音が聞こえ出した時期。この影響を受け、同スピードウェイは数回のレースを開催しただけで消滅してしまう。戦中は耕作地として利用され、戦後は数回のオートバイレースが行われ、オートレース場への転身を図ったもののこれが認可されず、結局は自動車教習場やプロ野球の東急フライヤーズの練習球場などを経て、現在は草野球場になっている。

 とはいえ、現在もその遺構が残っている。当時使われていたスタンドのコンクリート部分が、ほぼそのまま土手の一部として残されており、手すりを差し込んでいた穴なども確認することができる。残念ながら、ここがかつて多摩川スピードウェイだったことを示す表示は何もなく、近隣に住んでいる人も、ほとんどそのことを知らない。ただ、数年前に多摩川スピードウェイの遺構と確認され、一部新聞などで報じられてから注目を浴び、“多摩川スピードウェイの会”が様々なイベントと保存を計画。その第一弾として、今回の回顧展が開催されることになった。