ロシア / トロロッソ・ホンダ /
ゼッケンNo. :26
●国籍:ロシア
●生年月日:1994年4月26日(23歳)
●身長/体重:183㎝/68㎏
●F1デビュー:2014年第1戦オーストラリアGP
●在籍チーム:トロロッソ(2014年)→レッドブル(15年~16年ロシアGP)→トロロッソ(16年スペインGP~17年シンガポールGP、アメリカGP)
●出走:72回
●優勝:0回
●PP:0回
●FL:1回
●表彰台:2回
●入賞:27回
●通算獲得ポイント:133点
●ドライバーズ選手権最上位:7位(2015年/レッドブル)
2017成績
●出走:15回
●優勝:0回(勝率:0%)
●表彰台:0回(獲得率:0%)
●入賞:3回(入賞率:20%)
●完走:11回(完走率:73.33%)
●PP:0回(獲得率:0%)
●Q3進出:3回(進出率:20%)
●Q2進出:13回(進出率:86.66%)
●FL:0回
●予選平均順位:12.26位
●決勝平均順位:12位
■ダニール・クビアト プロフィール
生まれたのはウファという街だったが、8歳のときにロシアに転居。これをきっかけに、カートに乗り始めた。
レースデビューは10歳だった2005年1月。初めてのレースで勝利し、本格的なキャリアのスタートを切った。ロシア国内だけではなく、イタリアでのカートイベントにも参加し始める。翌06年には、早くも活動の軸をイタリアに移した。
国際舞台への登場は08年。10月の「ブリヂストン・カップ」に勝ち、その副賞としてF1パドックを訪問する機会を得る。09年がカート最後のシーズンとなった。いくつかの大きなレースに勝利すると、その活躍ぶりがレッドブルのレーシングアドバイザー、ヘルムート・マルコの目に留まる。7月にはカルロス・サインツJr.とともにフォーミュラ・BMWのテスト走行に招待され、翌8月にレッドブル・ジュニアチームに正式に選抜を受けた。カートでの最終成績はヨーロッパ選手権で総合3位、インターナショナルシリーズで同2位だった。
10年4月、フォーミュラデビューはまずアジアの地だ。マレーシアで開催されたフォーミュラ・BMWにゲスト参戦。デビューウインを飾る。その後にフォーミュラ・BMWのヨーロッパ選手権が開幕した。
だが当初の戦績は奮わず、シーズン終盤になって速さを見せるようになったものの、表彰台獲得はモンツァでの2位1回、ランキング10位に留まる。シリーズを終えるとまたアジアに遠征し、シンガポールでのレースに勝った。その後フォーミュラ・ルノーのユーロカップに最終戦1開催のみスポットで出ると、英国で同ウインターシリーズに参戦してランキング4位を得る。
続くシーズンを迎える前には季節が逆のニュージーランドに渡り、トヨタ・エンジンのワンメイクフォーミュラで腕を磨く。優勝1回、最終戦は走らずに総合4位でヨーロッパに戻る。
11年はフォーミュラ・ルノーでユーロカップと北ヨーロピアンカップ(NEC)にダブルでエントリー。NEC開幕戦ホッケンハイムに勝つと、ようやくヨーロッパでの活動が軌道に乗り始める。表彰台の常連となり、ユーロカップは総合3位、NEC同2位でフィニッシュした。冬はまた英ウインターシリーズ(ファイナルシリーズに改称)で過ごした。
レッドブルはチームメイトのサインツJr.を12年F3に昇格させる一方、クビアトはフォーミュラ・ルノーに残す。ユーロカップでは最多7勝を挙げたが、僅差のシリーズ2位。同時参戦したアルプスシリーズでは同じく7勝でチャンピオンとなった。
翌13年はGP3にステップアップすると、ふたたびサインツJr.とチームメイトとなる。フルエントリーではないもののF3ヨーロッパ選手権にも参戦、オランダ開催で勝利を挙げた。7月にはシルバーストンで行なわれたテストに参加して、トロロッソでF1初走行を果たす。トロロッソからダニエル・リカルドの14年レッドブル昇格が決まると、クビアトはその後任として指名を受けた。GP3では3勝、最終戦の逆転でシリーズタイトルを手にする。翌年のF1デビューを控え、終盤2戦ではトロロッソでFP1を担当した。
14年、この年からのF1固定カーナンバー制に伴い、生まれ日の26を選択。開幕戦オーストラリアでクビアトは8番手好グリッドを得ると、レースを10位で完走した。上位に失格者が出たことで正式順位は9位。19歳324日のF1史上最年少入賞記録をつくる(当時)。
クビアトはデビューシーズンを入賞4回のドライバーズ選手権15位だったが、セバスチャン・ベッテルがこの年限りでレッドブルを離脱。キャリア1年で、その後継に抜擢された。しかし、そこからは茨の道だ。
レッドブル1年目はハンガリーGPで2位表彰台を獲得したものの、その年の表彰台は1度に留まり首脳陣の信頼を得られず、翌16年に第3、4戦で相次いで接触アクシデントを起こすと、マックス・フェルスタッペンと交替でトロロッソに降格させられてしまう。
17年はトロロッソ残留となったが、成績は安定せず、終盤のマレーシアと鈴鹿ではシートから外された。その後いったんオースティンで復帰しチームに10位入賞を持ち帰るも、残る3戦に起用されることはなかった。事実上の解雇だ。
18年はフェラーリとデベロップ(開発)ドライバー契約を結び、シミュレータ作業を担当した。だがリカルドが19年のレッドブル離脱を決めると、事態は一変する。
レッドブルは配下にF1スーパーライセンス受給資格を持つ若手がおらず、1度は解雇を突きつけたはずのクビアトをトロロッソのドライバーとして呼び戻した。復帰後は第11戦ドイツで荒れた展開を3位。チームに08年イタリアのセバスチャン・ベッテル優勝以来となる表彰台フィニッシュをもたらす。