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F1 | アレクサンダー・アルボン(Alexander Albon) 2019年

アレクサンダー・アルボン(Alexander Albon) 2019年

タイ / レッドブル・レーシング /

ゼッケンNo. :23

■アレクサンダー・アルボン プロフィール

 自身は英国生まれの英国育ちだが、母がタイとのハーフ。F1でのスポーツ国籍はタイを選択している。父は英国人で、レース経験を持つ。

 8歳からカートでのレース活動を開始。地域レベルからまずキャリアをスタートさせ、翌2006年には英国の国内タイトルを獲得した。08年からは国際舞台でも活躍するようになり、11年にはカート最高峰のKF1クラスまでステップアップし、世界選手権2位等の成績を残している。マックス・フェルスタッペンやシャルル・ルクレールとは、このカート時代からライバル関係にあった。

 12年からフォーミュラレースに転向。だが当初の成績は散々なもので、特にフォーミュラ・ルノー・ユーロカップに参戦の1年目は入賞なしに沈む。この12年にはレッドブルのジュニアチームにも選抜されていたが、1年で外される憂き目にも遭う。

 13年はチームを移籍。初ポールポジションと初ファステストラップを記録して才能の片鱗を現すも、シリーズランキングは16位で終えた。3年目でランキング3位となったことで、ようやく同カテゴリーを卒業する。

 続いて15年には、F3ヨーロッパ選手権に参戦。2回のポールポジションと5度の表彰台を得るものの、未勝利でランキング7位で終える。この年の12月にGP3のオーディションテストを受け、翌16年のシートを得た。

 GP3ではドライバー4人体制で、ルクレールがチームメイトのひとり。そのルクレールを上回る年間4勝を挙げたもののシリーズチャンピオンは奪われ、ランキング2位に甘んじた。

 翌17年はFIA F2にステップアップ、日本人ドライバーの松下信治をチームメイトとした。トレーニング中の負傷で、第4戦となるアゼルバイジャン・ラウンドを欠場。最高成績は2度の2位表彰台に留まり、シリーズランキングも松下(6位)を下回る10位で終わった。

 18年はチームを移籍し、第2戦で行なわれた因縁のアゼルバイジャン・レース1で初優勝。4勝と7回の表彰台でランキングを3位と大きく躍進させる。9月には、18-19年シーズンのフォーミュラEにニッサンからエントリーすることが発表された。

 しかし、12年にジュニアチームに所属したレッドブルからダニエル・リカルドの19年流出が決定。これはレッドブルにとっても予想外の事態で、トロロッソを含めたドライバー選定が始まる。そのなかで現ジュニアチーム体制にはF1のスーパーライセンス基準を満たせるドライバーがおらず、資格を持ち過去に在籍していたアルボンに白羽の矢が立った。

 レッドブルはフォーミュラEニッサンにアルボンの契約を解除するよう動き、11月末に交渉は成立した。ピエール・ガスリーが19年レッドブルに昇格し、トロロッソからアルボンがF1デビューすることが決まった。1955年のプリンス・ビラ引退以来、ふたり目のタイ国籍ドライバー誕生だ。

 選択したカーナンバー23は、2輪レースの最高峰「MotoGP」の“レジェンド”バレンティーノ・ロッシが由来。ロッシは46を選手権の固定ナンバーとするが、アルボンは大ファンであることを公言し、尊敬の念から半分の23とした。

 デビューの経緯やジュニアフォーミュラでのタイトル獲得経験がないことから実力を懐疑的に見られがちだったアルボンだが、開幕前のテスト走行が始まると評価を一変させた。順応性の高さを示し、第2戦バーレーンを9位完走で早くもF1初入賞を決める。そのバーレーンを含めて12戦で5回の入賞を重ねて、F1はサマーブレーク期間を迎えた。

 ここで驚きの発表がなされる。レッドブルは不振だったガスリーをトロロッソに降格させ、アルボンを後任とする人事を行なった。レッドブルはこれを、翌20年に向けた比較評価だとした。

 アルボンは第13戦ベルギーからレッドブルに乗り込み、19戦時点まで最高位を4位とするすべてトップ6以内のフィニッシュ。7戦連続入賞を果たしコンスタントぶりを見せつけ、レッドブルの起用に応える。決定を急がなかったはずのレッドブルだが、シーズンをまだ2戦残す状況で、20年アルボンのシート継続が発表されている。

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