更新日: 2020.06.27 09:50
ドライバーとして臨んだ2006年プチ・ル・マン、初めての渡米で起きたトラブルの数々【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】
私が戦うのは真ん中に位置するクラス、ライツ2だった。このクラスはライツ1と比べてもはるかに興味深いクラスだった。
ライツ2にはマニュファクチャラーによる競争があり、マシンはパノスとラディカル、そしてアメリカのウェスト・レーシング・カーズ製のものが使われていた。また2007年からはイタリアのコンストラクターであるグロリアも参入を希望していた。
あの週末、私はパノス・エランDP04をドライブする予定だった。これは小型のシングルシーターマシンで、ベース重量はたったの470キロしかない。エンジンはスズキGSX-R1000というバイクのものを搭載しており、非常に速かった。
![パノス・エランDP02](https://cdn-image.as-web.jp/2020/06/13150945/Sam-in-Panoz-from-the-side-660x440.jpg)
日本でライツ2マシンに一番近いのは、2002年から2006年まで富士スピードウェイで開催されていたGC-21かもしれない。
さて、初めてアメリカへ向かうにあたり、私はチームとさまざまな確認を行った。私が持っていたヘルメットとレーシングスーツは当然ヨーロッパ仕様のものだ。アメリカではレギュレーションが異なることを知っていたので、レース参戦に支障はないか尋ねると、チームは問題ないと返答してきた。
また私が所有しているライセンスについても心配だった。当時私が持っていたのはイギリスの国内Aライセンスのみ。国際C級ライセンスを取得する要件は満たしていたが、私が主に出場していたイギリスやヨーロッパのレースで、Aライセンス以上のグレードが必要になることはなく“アップグレード”していなかったのだ。
アメリカへの入国自体なんの問題もなかった。アトランタ空港では多くのイギリス人が行き来していたし、私は望めばアメリカに住むこともできる特別なビザも持っていた。
入国審査を通り抜けるとき、私はドイツ人グループの存在に気がついた。彼らはポルシェで仕事をしているスタッフだった。しかし、彼らは入国審査官に質問攻めにされていた。気になったので、手荷物受取所で彼らのひとりを見つけ、入国審査官にどんな質問をされていたのかを聞いてみた。
彼によれば、入国審査官からは第二次世界大戦中のいかなる戦争犯罪にも関与していないことを確認したいと要求されていたのだという。だが、そのスタッフは当時35歳で戦時中には生まれてもいなかったので、困惑したそうだ。彼によればドイツ人がアメリカへ入国しようとすると、しょっちゅうそんな目にあうのだという。
無事に空港を出た私は、チームが用意してくれたサーキット近くのホテルへ向かうことにした。チームは“かなりいいホテル”だと言っていた。また毎日チームスタッフが送迎するのでレンタカーを借りる必要もないとも言っていた。だから、私はレンタカーを借りず、バスでホテルに向かった。
しかし、そのホテルは私が想像していたような“いいホテル”ではなく、むしろモーテルと呼ぶようなものだった。客室は清潔感があり、ベッドも快適だったが、周囲には食料を買えるような場所もなかった。
みなさんもご存知のように、アメリカはクルマ社会だ。アメリカ人はどこへ行くにもクルマを使うので、歩いて食料を買い求めることは不可能に近かった。チームから言われたとおり、レンタカーを借りていなかった私は、結局毎晩ピザのデリバリーを頼む羽目になった。