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投稿日: 2020.10.16 09:34
更新日: 2020.10.20 10:53

ティレル020の真実が見えてくる『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は全国書店やインターネット通販サイトで好評発売中


F1 | ティレル020の真実が見えてくる『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は全国書店やインターネット通販サイトで好評発売中

■チームの状況

──ケン・ティレルのチームで1年間ドライブして、どんなことを感じましたか?

「素晴らしかったよ。彼は偉大な人物だ。とても正直で、公平で、単刀直入な人で、私は彼が大好きだった。スペインでのレースで、タイヤを交換してもらうために、チームからの指示を待たずにピットに入ってしまったことがあった。

 レースが終わるとすぐに、彼は私をモーターホームへ連れていき、そこで初めて『二度とああいうことをするな!』と叱られた。すごく率直でいい人だった。彼だけではなく、彼の奥さんもね」

──ハーベイについてはどうですか? 彼はシーズン途中でチームを離れましたが……。

「ハーベイはモナコGPの直後にチームを去った。理由は私には分からない。彼はザウバーへ行ったのだが、本人からは、とても断れないようなオファーを受けたのだと聞かされた。

 プロジェクトのチーフエンジニアを失うのはありがたいことではないし、私としては気に入らなかった。けれども、ライトンがその穴を埋めてくれて、シーズン終盤にはクルマも良くなっていた。

 ジャン‐クロード・ミジョーも90年末にチームを辞めていた。まだ私がティレルの新車に乗ってもいないうちにだ(笑)。だが、それは私に はどうしようもないことだった」

──中嶋 悟との仲は良かったのでしょうか?

「彼はとても物静かで、うまくやっていくのは少しも難しくなかった。ナイスガイで、すごく親切な人だった。彼がチームに相当な金額を持ち込んでいたのは間違いないと思う。

 それでも要求が厳しかったり、文句が多かったりしないのは、チームにとって良いことだった。速さに関して言えば、F1に来てからの数年で大きく進歩したのは間違いない。

 私の記憶では、最初のうちは周りについていけなかったが、一緒にレースをした年には、ずいぶん速くなっていた。確かドイツの予選では、私より前のグリッドを獲得したはずだ」

──91年は、あなたにとってどんなシーズンでしたか?

「私としては、もっと実り多い年になると思っていたが、最終的には期待外れに終わった。とはいえ、ケンと仕事をできたことは素晴らしい経験になり、チームの人たち、メカニックも優秀な人たちばかりだった。

 ティレルにはスーパーチームマネージャーのルパート・マンウォリングがいた。彼はとてもいい人で、いつもポジティブだったし、私の支えにもなってくれた。自分とは直接関わりがないことでも、彼は本当に誠実な態度で問題を解決しようとしてくれた。

 私のF1でのキャリア全体を振り返ってみても、おそらく彼は最高のチームマネージャーだ。どのチームにも、ああいうタイプの人が必要だと思うよ。そして、ティレルだけではなくブラバムも含めて、私がいたチームのメカニックはみんな優れていて、自分が何をすべきかをちゃんと理解していた」

■ティレル後の人生

──どうして92年にはジョーダンへ移籍したのですか?

「ティレルに留まる可能性もあった。だが、ケンからサラリーは払えないと言われてね。その時点で、私にはジョーダンへ行くという選択肢があった。エディー(ジョーダン)から連絡をもらい、契約を提示されていたんだ。彼らは91年に好成績を挙げていたし、私は若いチームへ移籍することに強い魅力を感じた。あの頃は誰もが将来に目を向けていた。

 一方、歴史があるティレルは、すでにある程度まで固まったチームで、未来に向けたプロジェクトもあまりなかった。その時の私には、ジョーダンの方が良い選択のように思えた んだ。だが、言うまでもなく、私の判断は間違っていた。まるでF3000チームでドライブするようなものだったからだ。

 ジョーダンでは、いろいろなことが機能していなかった。ギヤボックスはすぐに壊れるし、ヤマハ・エンジンもひどいものだった。年間を通じて、ずっと言い争っていたわけではないものの、チームとの関係は良好とは言えず、私もクルマについてああしろ、こうしろと強く主張した。

 私がいつも不満を抱え、不機嫌だったことは認めざるを得ない。ドライバーをちゃんとサポートできるチームへ行って、チームと共に成長するのだと思っていたからね。ところが、実際にはそこはF3000レベルのチームで、私にとっては後退でしかなかった。期待を裏切られて、失望していたのは確かだよ。まあ、それが人生というものだ」

──92年の終わりに、何が起きたのですか? ジョーダンで不遇のシーズンを過ごした後、あなたが再びF1でレースをすることはありませんでした……。

「別に何も起きなかった。ただシートが見つからなかっただけだ。移籍に関して、また同じような失敗をしたくなかったし、ただF1で走っているだけというようなチームへ行きたくはなかった。

 F1で居場所を失ったことには落胆したが、私にはどうしようもなかった。F1という世界では、礼儀正しく親切な人間でいなければならない。あの年の私はいつも不機嫌で、感じが悪かったんだ。

 成績は低迷し、チームからのサポートもなく、あらゆることが機能していなかった。F1は小さな世界だから、噂はすぐに広がるし、成績不振は誰の目にも明らかで、チームで何が起きているかを外部の人も感じ取ったのだと思う。残念なことだが、それで私のキャリアは終わった」

──その後、あなたはイタリアで、長年にわたりブリヂストンの仕事をしています。どんな仕事なのですか?

「最初は開発ドライバーだった。市販車用タイヤのテストドライバーだ。そして、3年前にローマにある教育センターに移った。そこはブランドマーケティングに属する一部門で、リサーチとかトレーニングとか、そういった活動を引き受けている。

 なかなか大変な仕事だよ(笑)。テストドライバーの仕事は、とても興味深いものだった。自動車メーカーとの共同開発が多くて、いろいろなプロトタイプに乗れたからね。

 今はユーザーに関するリサーチが主な仕事だ。一般の方々は、タイヤが人の命を守ったり、より良いドライブ体験をもたらすことを、あまり知らないんだ。それは、そういう教育の機会が不足しているからで、誰かが機会を提供しないと一生学べないかもしれないんだ!」

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 セナは自分のライバルとなり得るドライバーとは距離を置いていた。その意味で「仲が良かった」という事実から思うに、モデナはセナのライバルにはなり得なかったということだ。

 ただ、セナはきっと感じていたのだと思う、モデナの中にある自分と近い感覚を。だからこそ「クルマはどうだい?」なんて話題を話しかけたのだろう。

 当時の日本のF1ファンは、020と中嶋悟を強く結びつけてイメージしていた。そこにモデナの付け入る隙などなかった。ただ、30年近く経った令和の時代に、平成初期のこのクルマに思いを馳せる時、モデナにも少しだけ寄り添ってもらえたらより深く020を理解してもらえるのではないかと思う。

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