更新日: 2020.03.19 15:59
今明かされるデイモン・ヒル戦意喪失の理由。「仲間を殺しそうになるような間抜けであることに自分自身が耐えられなかった」
Translation:Kenji Mizugaki
──ガスコインの加入によって、明らかな改善が見られましたか?
ヒル:98年にエディといろいろな話をした。私にはジョーダンのやり方と、ウイリアムズのようなチームの運営の違いを、はっきりと指摘できたからだ。それを聞いて、彼は改善のための行動を起こし、ガスコインを迎え入れた。実際、彼はごく短期間で、大きな成果を挙げたと思う。
また、私たちはホンダにも要望を出してプッシュした。まあ、さすがに「GP2エンジンだ!」とは言わなかったが(笑)、黙っていると何もしてもらえないからね。
私がチームに何かを残せたとすれば、それはどうすれば勝てるか、そしてコンテンダーからウイナーになれるかを示すという点で、一役買ったことだと思う。そこにはとても大きなメンタリティの違いがあった。
──98年のスパであなたがレース前のブリーフィングを主導し、チームに「雨のレースなら勝てる」と言ったのは、その一例だったのですね?
ヒル:そうだね。エディからは、スポンサーのゲストに会いに行くように言われていた。だが、私は「いや、行かないよ。今日は勝てるチャンスなのだから、ここでブリーフィングを続ける」と言った。彼は怒って、部屋中を飛び跳ねながら「私の顔を潰すつもりか!」とわめいたが、私は「いや、行かない。チームが勝つための手助けをしたいんだ。これから、どうすれば勝てるかという話をする」と言って断った。
私はアラン・プロスト、アイルトン・セナ、ナイジェル・マンセル、パトリック・ヘッド、フランク・ウイリアムズ、ジョン・バーナード、そして私の父(グラハム・ヒル)のような人たちと仕事をしてきた。つまり、勝ち方を知っている人たちと仕事をしてきたんだ。大事なときにパーティーに行くようでは、勝てるようにはならない。パーティーはレースが終わった後で行けばいい。
■面白いやつだった
──フレンツェンが2勝を挙げた1999年には、チームとして明らかに進歩していたのでしょうか?
ヒル:確かに彼は速かった。フランクがフレンツェンから引き出せなかったものを、ジョーダンはうまく引き出せたんだ。ドライバーのパフォーマンスは、時として不可解で興味深いものがある。彼は速いドライバーだったが、それを発揮するには彼にぴったり合った環境を必要とした。
──フレンツェンとチームメイトになるのは、ある意味で奇妙な状況だったのではありませんか? 1997年にウイリアムズが彼を迎えたために、あなたは居場所を失ったのですから!
ヒル:彼は本当に面白いやつだったよ。報道やテレビで、そういう面が取り上げられたことは一度もなかったと思う。だが、彼はとても楽しい人物で、ドライでユーモアなセンスの持ち主だった。
私たちはチームメイトとして、大いに楽しい時間を過ごした。一般のファンの多くは、チームメイトなんて、みんな互いに憎み合っているものと思っている。けれども、ドライバーの大半はこの仕事が好きで、レースを楽しんでいるだけなんだ。
■ひどい泥仕合
──あなたは、イギリスGPを最後に引退することを望んでいながら、結局シーズンの終わりまでレースを続けました。どうしてそうなったのですか?
ヒル:私はシルバーストンでレースをしたかったのだが、エディが私を降ろそうとし始めて、とても激しい議論になった。彼はイギリスGPよりも前に私を交代させたいと考え、私はドライバーとしての出発点とも言えるシルバーストンで、自分のキャリアを締めくくりたかった。エディがイギリスGPまで待てないと主張して、何とか私を降板させようとしたために、ひどい泥仕合のようになったんだ。どうやら契約の面からも面倒なことになりそうだと思った。
──マネージャーのマイケル・ブリーンが間に立っていたことで、さらに事態がこじれたのでしょうか?
ヒル:裏で何が起きていたのかは知らないが、おそらく私には状況が正確に伝えられていなかったのだと思う。私はビジネス面については自分で対応したくなかった。交渉事はあまり得意ではないからだ。どこかの時点で少し、あるいは完全に話がこじれたのは間違いない。
とにかく間に立つ人の数が多すぎた。私が直接話をすれば良かったのかもしれない。エディを相手に交渉をすると、みんな煙に巻かれて訳が分からなくなってしまうんだ。あの時は、少しばかり厄介な状況になっていたから、何とか解決できてホッとしたよ。