更新日: 2020.03.19 15:59
今明かされるデイモン・ヒル戦意喪失の理由。「仲間を殺しそうになるような間抜けであることに自分自身が耐えられなかった」
Translation:Kenji Mizugaki
──ニュルブルクリンクでは、スタートでエンジンが止まってしまい、その余波を受けてペドロ・ディニスがクラッシュしました。その後、フレンツェンもピットアウトしようとしたときに、やはりエンジンが止まってリタイアを喫しています。いったい何が起きたのでしょうか?
ヒル:クルマが発進したら、すぐに押さなければならないボタンがあって、ふたりともそのボタンを押し忘れたんだ。アンチストールシステムのようなものだった。
あのディニスのクラッシュを見て、私はもうこの場を立ち去りたい、F1でレースはしたくないと思った。ボタンを押し忘れて、仲間のドライバーを危うく殺しそうになるような間抜けであることに、自分自身が耐えられなくなったんだ。その時点で、もう本当に嫌になっていた。
──最後のレースになった鈴鹿で、あなたは自らリタイアを選びました。その判断について、今はどう考えていますか?
ヒル:走り続けることもできたが、すでに周回後れになり、ポイントを獲得できる可能性はなかった。それなら無事にキャリアを終えた方がいいと思ったんだ。父に起きたことが、ずっと頭から離れなかった。彼は現役を引退した後で、あんなことになったんだけどね。
私は何の意味もなく死にたくはなかったし、あの時点では、エディがどう思うかなんて少しも気にしていなかった。ひとまず生き延びられたということ以外に、リタイアすることで得たものは何もなかったよ。何とも悲しい終わり方だった。あんなかたちでキャリアを終えたくはなかったけれども、私はもうレースに必要な、ある種の特別な力を失っていたんだ。
最善の手は、すぐにクルマを降りることだった。良かったことを思い返したり、嫌なことを忘れたりできるのも、生きていればこそだ。レーシングドライバーになれたのは幸運なことで、いろいろとエキサイティングな機会にも恵まれた。だが、いつかは辞めるべき時が来る。
バーニー(・エクレストン)がよく言っていたように、レーシングドライバーは“赤信号”が見えたら即座に引退すべきなんだ。彼の言葉に間違いはなかった。自分に鞭打ってシーズンの終わりまで走り続けるのはひどい苦痛だったし、その間は、とにかく無事に終わりたいということしか考えていなかった。
──ジョーダン時代を振り返ってみて、いい思い出と言えるようなこともありましたか?
ヒル:もちろん、楽しく過ごした時間もあった。ジョーダンの初勝利も記録することができたしね。引退後、何年か経ってからエディと話した時に、「スパでは、ラルフをウォールに突っ込ませてやるって言ったよな」と言われた。だが、決してそんなことは言っていない。私は、チームオーダーを出さないのなら、そういう結果になっても責任は持てない、と言ったんだ。その話をするまでエディはずっと、ラルフに勝たせるぐらいなら、私がわざとクルマをぶつけるくらいのことはすると思っていたらしい……。
一番の思い出は、ジョーダンで優勝した時に、“アイルランドで最もセクシーな男”に選ばれたことかな。私はアイルランドに家を持ち、アイルランドのチームでドライブしていたから、あの国ではすごく人気があったんだ(笑)。
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『GP Car Story Vol.31』では、今回お届けしたデイモン・ヒルへのインタビューのほか、ジョーダン199の開発総責任者であるマイク・ガスコインや、無限ホンダF1の顔であった坂井典次氏、当時テストドライバーだった中野信治氏のインタビューなども掲載。
当時、無限ホンダ・エンジンの設計者で現M-TEC社長 橋本朋幸氏のインタビューでは、プロジェクトにすべてを捧げた技術者としての喜びと、組織への葛藤が吐露されており、引き込まれること間違いなしの内容になっている。
歴史的には埋もれてしまった感が否めないが、関係者の言葉からもいかに199が可能性を備えていたクルマであったかが理解してもらえるはず。『GP Car Story Vol.31 Jordan 199』は全国書店やインターネット通販サイトで発売中だ。