フランス
生年月日 | 1989年7月1日 |
国籍 | オーストラリア |
身長 | 179 cm |
体重 | 69 kg |
生年月日 | 2016年12月1日 |
国籍 | フランス |
●チーム本拠地:イギリス・エンストン
●デビュー:1977年第10戦イギリスGP
●活動年:1898年~
●出走数:383
●勝利数:35(初優勝:1979年第8戦フランスGP/最新優勝:2008年第16戦日本GP)
●PP獲得数:51(初PP:1979年第3戦南アフリカGP/最新PP:2009年第10戦ハンガリーGP)
●コンストラクターズタイトル:2(2005~06年)
●ドライバーズタイトル:2(2005~06年)
2019年F1成績
●PP:0回
●優勝:0回
●FL:0回
●表彰台獲得率:0%
●入賞率:42.85%
●完走率:80.95%
●主要チームスタッフ:
ジェローム・ストール(プレジデント・オブ・ルノー・スポール・レーシング)
シリル・アビテブル(マネージングディレクター)
マルチン・ブコウスキ(エグゼクティブディレクター)
ニック・チェスター(シャシー・テクニカルディレクター)
レミ・タフィン(エンジン・テクニカルディレクター)
ジャック・エイトキン(サード&リザーブドライバー)
セルゲイ・シロトキン(テスト&開発ドライバー)
『グランプリ』発祥の国、フランス。その初回レースとなった1906年にルノーは参加し、イタリアから乗り込んできたフィアットらを大差で下して優勝を飾った。
同様のイベントは、その後ヨーロッパ各国に広まりを見せる。これらを集約し、開催地や統一ルールを決め、年間で争うシリーズ化としたのが、50年制定の『F1世界選手権』だ。
しかし、このフランスの雄がF1の舞台に上ることは、なかなかなかった。ルノーは09年を最後に、いったんモータースポーツ活動を休止。第二次世界大戦が明けた40年代終わりから徐々に再開に至るものの。それらは純ワークスではなく、関連チューナーたちによる耐久レースやラリーの活動支援に限られた。
状況が動き出すのは69年。まずゴルディーニ、73年はアルピーヌと、それまで後方支援に留まっていた自社系の有力モータースポーツチューナーたちを続々と傘下に入れる。そして76年にモータースポーツ活動に特化した部門、『ルノー・スポール』が設立される。
ルノー初のF1参入は、翌77年。シャシーも自製する、メーカーワークスチームとしてだった。ここで注視すべきは、F1にターボを持ち込んだことだ。ターボはラグ(アクセル操作からの応答性の悪さ)が嫌われ、排気量も当時の規定では半分の1500㏄以下に制限されることで、それまでのF1では1度も採用がなかった。NA(自然吸気)エンジンが当たり前の時代に、ルノーはイノベーションを起こす。
参戦1年目は壊れてばかりだったが、翌78年に同じくターボエンジン搭載でル・マン24時間レースの総合優勝を果たした。79年にF1でも初優勝を遂げると、その大パワーぶりに趨勢は一気にターボカーへと傾く。81年からフェラーリがターボ導入、翌82年にコンストラクターズ選手権を獲った。
だがルノーはあと一歩で両タイトルには届かず、85年でワークスチームを撤退。86年はエンジン供給に専念したが、これも結果を残せずに1度舞台を去る。
88年でF1がターボ禁止となると、89年にルノーはエンジンサプライヤーとしてF1復帰。ウイリアムズとタッグを組む。ホンダも同様だったが、注目されたのはV10の採用だ。振動が大きいとされるレイアウトだが、またも固定観念を壊す。ホンダが91年にはV12に移行するなか、ルノーはニューマチック(エア)バルブを開発するなどし、V10技術の究極化を進めた。
さらにウイリアムズとは親密な関係を築き、車体側の要求をバンク角の設定等のエンジン設計にも反映させていく。パワー信仰よりもシャシー間のマッチング、これもF1に呼び込む新時代だった。92年に両選手権を4連覇中だったマクラーレン・ホンダを撃破、ルノーはF1チャンピオンエンジンの座に就く。97年にこの第2期の活動を終えるまで、パートナーを組んだチームのコンストラクターズ選手権は6回、チャンピオンドライバーは5人を数えた。
98~2000年は新規開発は行なわないものの、関連会社に旧スペックをベースとするエンジンを製作させ、F1に供給を行なっていた。その最後となる00年、95年2冠のパートナーだったベネトンを買収、ワークスチーム化してのF1復帰が発表される。
ベネトンは前身のトールマンとして英国で設立され、81年の第4戦からF1参入。84年アイルトン・セナのデビューチームとしても知られる。85年のシーズン終了後に、この年から大口スポンサーとなっていたファッションブランドのベネトンが買い取った。
86年初優勝。ミハエル・シューマッハーを94年に初回のドライバーズ王座に導き、ルノーとの提携は翌95年からとなる。ベネトンからルノーへの体制移行は段階的に進み、フルワークスとなったのは02年からだ。
ここでもルノーは挑戦的な試みを行ない、03年に111度の超ワイドバンクV10を投入。第13戦ハンガリーで、フェルナンド・アロンソが当時の史上最年少優勝で1勝を挙げた。このワイドバンク思想は翌年から取り下げられたものの、05年にこれも当時史上最年少でアロンソが初のドライバーズタイトルを手にすると、コンストラクターズ選手権との2冠。ワークスチームとして、初のF1の頂点に立った。06年も両タイトルを連覇する。
だがその後、チームは弱体化。09年12月に『ジニー・キャピタル』にチーム株式大半を売却して、運営も任せる。エントリー上はルノーとして10年まで参戦、11年はロータス・ルノー、12年からはロータスとなって完全に手を離れた。
10年からは事実上エンジンサプライヤーに専念し、供給先のレッドブルの4年連続選手権2冠に貢献する。14年からは新規定となるパワーユニット(PU)を契約各チームに供給するが、レッドブルは王座陥落、ロータスは翌15年のメルセデスPU変更に踏み切る。だが、かつてのワークスチームは深刻な財政難に見舞われ、その15年中にルノーは買い戻す決断をした。
16年、三たびワークスチームが復活。ただ、後ろ楯となっていた本社カルロス・ゴーン体制が崩れたことで、PU供給も含む今後のF1活動には不透明な空気も漂う。
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