イギリス
生年月日 | 1996年3月23日 |
国籍 | タイ |
身長 | 186 cm |
体重 | 74 kg |
生年月日 | 2000年12月31日 |
国籍 | アメリカ |
●チーム本拠地:イギリス・グローブ
●デビュー:1975年第1戦アルゼンチンGP
●活動年:1972年~
●出走数:783
●勝利数:114(初優勝:1979年第9戦イギリスGP/最新優勝:2012年第5戦スペインGP)
●PP獲得数:128(初PP:1979年第9戦イギリスGP/最新PP:2014年第8戦オーストリアGP)
●コンストラクターズ・タイトル:9(1980~81、86~87、92~94、96~97年)
●ドライバーズ・タイトル:7(1980、82、87、92~93、96~97年)
2021年成績
●PP:0回
●優勝:0回
●FL:0回
●表彰台:1回
●入賞:6%
●完走:37回
●主要チームスタッフ:
ヨースト・カピート(ウイリアムズ・レーシングCEO&チーム代表)
スベン・スミーツ(スポーティングディレクター)
フランソワ-グザビエ・ドゥメゾン(テクニカルディレクター)
デイブ・レディング(チームマネージャー)
デイビッド・ワーナー(デザインディレクター)
ジェンソン・バトン(ブランドアンバサダー)
マクラーレンと双璧を成す、英国の名門。トータルのF1出走数ではおよばないものの、コンストラクターズ王座の獲得回数はマクラーレンをひとつ上回る9で、フェラーリ(16回)に次ぐ歴代2位を誇る(2019年終了時点)。
また、参戦開始以来オーナーシップの交代がないという意味では、独立系チームとして他の追随を許さない。
創設者フランク・ウイリアムズはレーシングドライバーを志した時期もあったが、早くに自らの才能に見切りをつけマネージメント業に転向。24歳を迎える1966年、『フランク・ウイリアムズ・レーシングカーズ』を創業した。この『第1次』ウイリアムズは当時許されていたカスタマーシャシーで、69年に下級フォーミュラからF1進出。やがてシャシーを自製するなどもしたが、1勝も挙げることなく76年にカナダの大富豪ウォルター・ウルフに株式の60%買収を受ける。
翌77年にフランクは株式のすべてを手放してチームを去り、行動をともにしたエンジニアのパトリック・ヘッドと共同で新会社『ウイリアムズ・グランプリ・エンジニアリング』を立ち上げた(この際の出資比率はウイリアムズが70、ヘッドが30%)。これがいまのウイリアムズの第一歩となり、77年のカスタマーシャシー参戦を経て、翌78年からシャシーの自製を開始する。
ヘッド門下の技術陣にはのちの著名エンジニアたちがそろい、自製2年目の第9戦にクレイ・レガツォーニのドライブで早くも初優勝。翌80年には初のコンストラクターズ王座に輝くとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズタイトルにも導く。81年コンストラクターズ選手権連覇。82年はF1に到来したターボ時代の猛威にさらされつつも、自然吸気(NA)のコスワースでケケ・ロズベルグをドライバーズ王座に就けた。
翌83年シーズン中の交渉で、復帰1年目のホンダからターボエンジンの供給契約を取りつけ最終戦のみで使用。84年の第9戦ダラス開催で、ホンダとのパートナーシップの初勝利とした。
86年3月、フランクは移動中の自動車事故で脊椎損傷を負って、以後車椅子での生活を強いられる。長く不在の時期があったが、チームはこの年のコンストラクターズ王座を獲得し、ホンダにはチャンピオンエンジンの称号をもたらした。87年はネルソン・ピケのドライバーズ王座と2冠、だが同年限りでホンダとの契約は打ち切られた。
88年をカスタマーエンジンの『ジャッド』NAで過ごし、ターボ禁止となった89年からルノーを新たなパートナーに迎え入れる。90年には当時まだ新進気鋭だった空力エンジニア、エイドリアン・ニューウェイを獲得。ヘッドの元で、真の一流デザイナーに鍛え上げた。
91年にギヤボックスをセミオートマティック化、アクティブサスペンション、トラクションコントロールと長年開発を続けてきた先鋭技術を92年型で結集させてマクラーレン・ホンダからナイジェル・マンセルのドライバーズ王座と合わせて2冠を奪回。93年を最後にF1でセミオートマを除くハイテクデバイスは禁止となったが、黄金期は続く。
93年アラン・プロスト、96年デイモン・ヒル、97年ジャック・ビルヌーブをドライバーズ王座に輩出。コンストラクターズ王座は93、94、96、97年と次々に制覇した。
だが96年終盤のニューウェイ離脱と、97年を最後とするルノーのワークス撤退が風向きを変える。
98、99年はルノー・ベースのカスタマーエンジン供給を受け、いずれも未勝利でコンストラクターランキングは3、5位と下降。そして、00年から新たに手を結んだのがBMWだ。
BMW復帰2年目となった01年にはコンビ初勝利を挙げ、計4勝。02、03年はコンストラクターズランキング2位を続け、チームの勢いは回復されたかに見えた。だがチームに支配権を行使したいBMWとの関係は次第に不穏となり、05年に決裂。またも自動車メーカーのワークス待遇を失い、ここから長い低迷期に入る。
06年はコスワース搭載、07年からは中嶋一貴の起用を受け入れて、トヨタのセカンドチームとしてエンジン供給がされた。中嶋は当初リザーブドライバーで、07年の最終戦でレースデビューを果たすと、08年から正式にレギュラー昇格。以後、トヨタがF1を撤退する09年まで在籍した。
10、11年はコスワース、12年からはルノーとエンジン契約。かつてのワークス待遇ではないものの、12年の第5戦スペインではパストール・マルドナドがポール・トゥ・ウインを果たして、BMW時代の04年以来となる優勝を遂げる。だが単発で終わり、F1の14年パワーユニット(PU)規定導入とともに、メルセデスにサプライヤーを切り換えた。
この策は当たり14、15年とコンストラクターズランキングを3位まで回復させるが、勝利には手が届かないまま、その後は2年連続の5位とじり貧。打開しようと18年型でクルマの設計コンセプトを一新させるが、これが完全な失敗に終わり、その18年からは2年連続でコンストラクターズ選手権最下位に沈む。
2020年は名門に訪れし、かつてない苦境からの脱出なるか。
新型コロナウイルスの影響もあって、財政的に非常に苦しい状況に立たされたウイリアムズは、2020年5月にチーム売却を検討していることを発表。8月にはアメリカの投資会社『ドリルトン・キャピタル』がチームを買収したが、それに伴いチーム創設者のフランク・ウイリアムズと、チーム副代表を務めていた娘のクレアが退任し、43年間にわたるウイリアムズ家による運営が終了した。
ジョージ・ラッセルとルーキーのニコラス・ラティフィを起用した2020年も競争力を発揮できない厳しいシーズンとなったが、そんななかラッセルは幾度となく予選でQ2に進出し、レースでも入賞まであと一歩という勇姿を見せた。ルイス・ハミルトンの代役としてメルセデスから第16戦サクヒールGPに出場したラッセルは、9位に入賞しようやくF1での初ポイントを獲得したが、ウイリアムズはコンストラクターズランキングにおいて2年連続ノーポイントでシーズンを終えた。
2021年はハンガリーGPでラッセル、ラティフィともに序盤の多重クラッシュを回避して入賞を記録したことで、ダブル入賞で2019年以来のポイントを獲得。最終的にラッセルが4回、ラティフィが2回入賞したことで、チームとして23ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権においてアルファロメオとハースを上回り8位につけた。
2022年はメルセデスに移籍したラッセルの後任としてアレクサンダー・アルボンが加入。FW44の競争力は高くなかったが、第3戦オーストラリアGPでアルボンが加入後の初入賞を記録。マイアミ、ベルギーでもポイントを獲得した。一方3年目を迎えたラティフィは低迷し、9月には2022年限りでチームを去ると発表。その後日本GPで9位に入賞するも、この年の入賞は1回限りだった。ラティフィの離脱で空いたシートは、ウイリアムズ・ドライバー・アカデミーのメンバーであるアメリカ人ドライバー、ローガン・サージェントが掴んだ。
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