イギリス
生年月日 | 1981年7月29日 |
国籍 | スペイン |
生年月日 | 1998年10月29日 |
国籍 | カナダ |
身長 | 182 cm |
体重 | 70 kg |
●チーム本拠地:イギリス・シルバーストン
●デビュー:1959年第3戦オランダGP
●活動年:1959年~60年、2021年〜
●出走数:72
●勝利数:0
●PP獲得数:0
●コンストラクターズ・タイトル:0
●ドライバーズ・タイトル:0
●主要チームスタッフ:
ローレンス・ストロール(チームオーナー、会長)
マイク・クラック(チーム代表)
ダン・ファローズ(テクニカルディレクター)
フェリペ・ドルゴヴィッチ(リザーブドライバー)
オーナーシップの交代と、それに伴うチーム名変更が何度も起きてきた歴史を持つ。
起源となるのは、1991年にF1に参入した『ジョーダン・グランプリ』だ。創設者のエディ・ジョーダンは、いまは英国TV局のF1解説を行なっていることでも知られる。
銀行勤めだったジョーダンは、22歳でカートを始めるという異色の経歴ながら、それでもレーシングドライバーとしてF3までは進出した。そして31歳となった79年の終わり、『エディ・ジョーダン・レーシング(EJR)』を組織して、マネージメント側に舵を切る。
運営手腕は確かで、EJRを87年に英国F3、89年に当時F1直下の国際F3000選手権(現在のFIA-F2にあたる)でドライバーズタイトルを獲得するほどの有力チームに育て上げた。
そうなると次はF1がターゲットとなり、内外にジョーダン・グランプリ旗揚げを宣言して、参戦準備を開始する。91年の開幕でF1に歩を進めると、当時6位までと現在よりハードルの高かった初入賞は5戦目で2台が4、5位となって果たされた。また、第11戦ベルギーでは新人ミハエル・シューマッハーにシートを与え、のちの7回チャンピオンのデビューチームとなっている。
この年のコンストラクターズランキングを5位で終えると、F3000チームの活動は停止。翌92年に向けてはフォードに代わり、ヤマハとエンジン契約を結ぶ。だが一転して不振に終わり、ヤマハとの関係は1年で解消した。
その後2年間はプライベートチューナーのハート・エンジンで闘い、2年目の94年には鈴木亜久里の1戦のみスポット起用もあった。
非力なエンジンながら初表彰台と初ポールポジションを達成した94年のシーズンは高く評価され、翌95年からはプジョーとのワークス契約に成功する。このパートナーシップは複数回の表彰台を記録するなどしたが、3年で終了。98年からは無限-ホンダのユーザーとなった。
その98年には96年王者のデイモン・ヒルが加入。第13戦ベルギーで、チームに参戦8年目での初優勝をもたらす。その勢いは翌99年も続き、新加入ハインツ-ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げて終盤までドライバーズ王座争いに絡み、チームのコンストラクターズランキングも過去最高の3位まで押し上げた。なおこの99年、チーム国籍をジョーダンの出身アイルランドから英国に変えている。
だが2000年は未勝利に終わり、01年にはカスタマー契約とはいえ、ホンダのワークススペックにエンジンを切り換えた。このホンダとの関連から、02年は1年目の佐藤琢磨を起用した。なおチーム成績は上向かず、スポンサーの離脱等もあって、資金繰りは一気に悪化し始めた。
03年は琢磨も移籍し、ホンダに代わりフォード搭載。第3戦のブラジルでジャンカルロ・フィジケラの奇跡的な優勝はあったが、チームの年間ランキングは9位まで沈む。04年は売却説が絶えないなかで1年を過ごし、翌05年1月にロシア資本の『ミッドランド・グループ』による買収が発表されてチームは創設者の手を離れた。
05年はフォード撤退に伴いエンジンをトヨタとし、登録手続き上の理由でジョーダン名のままで参戦。06年に『MF1(ミッドランドのM+F1)レーシング』と改称された。本拠地はシルバーストンで維持されたものの、チーム国籍はロシアに移った。
だが低迷を脱することはできず、シーズン終了間際には、早くもチームがオランダのスポーツカー専門メーカー『スパイカー・カーズ』に転売。翌07年からチーム国籍をオランダとし、『スパイカーF1』での参戦を始める。
エンジンはフェラーリにスイッチしたが、この新体制も不発で、10月にはインドの企業家ビジェイ・マリヤによる買収を受けた。08年からは『フォースインディア』名で、チームもインド国籍に変更された。
1年目は低迷したものの、マリヤはチーム運営にも積極的に関与。翌09年にエンジンをメルセデスに変更する等の決定を行ない、体制の立て直しを図る。
09年型はとにかく直線スピードの速いクルマに仕上がり、その特性を活かして第12戦のベルギーでフィジケラがポールポジションから2位フィニッシュという殊勲で、組織再生の第一歩を記した。この年は2回の入賞に留まったが、翌10年からはコンスタントなポイント獲得が望める状況まで進化する。ついに16年にはコンストラクターズランキングを4位まで上げ、17年にもそのポジションを維持した。
こうしてチームは中団トップの地位を固めるかに見えたが、マリヤの本業ビジネス不振が暗い影を落とす。チームへの資金流入は止まり、18年夏には破産状態となって管財人の下に置かれた。
これを救ったのが、当時ウイリアムズのドライバーだったランス・ストロールの父ローレンス。彼を中心とするコンソーシアム(企業家グループ)がチームを引き受け、『レーシングポイント』に改称して存続させた。フォースインディア体制下で稼いだ18年コンストラクターズポイントは剥奪とされたが生き残りには成功し、英国籍チームに戻っての活動を続ける。
セルジオ・ペレスとストロールのペアで迎えた2020年、チームは『BWT』をタイトルスポンサーに迎えた。1月にはチームオーナーのローレンス・ストロール率いる投資家グループがアストンマーティンの株式を取得し、2021年からはアストンマーティンの名前でF1に参戦することが決定した。
レーシングポイント最終年のこの年は、『RP20』がメルセデスの2019年型マシンに酷似していたことで大きな注目を集めた。この件についてルノーが抗議を行った結果、RP20のブレーキダクトの設計方法は違法であるとの判決が下され、コンストラクターズポイントを15ポイント剥奪、約5000万円の罰金を科された。
プレシーズンテストから速さを発揮していたレーシングポイントは、7月のシーズン開幕後もコンスタントにポイント獲得を重ねる。第14戦トルコGPではストロールがキャリア初のポールポジションを獲得すると、第16戦サクヒールGPでは序盤に最後尾まで順位を落としたペレスが大逆転で初優勝を飾り、3位に入賞したストロールとともにダブル表彰台を獲得。コンストラクターズランキング4位を獲得し、2021年からはセバスチャン・ベッテルを迎えストロールとのペアで戦っていくことになる。
レーシングポイントからアストンマーティンにリブランドした2021年は、レギュレーション変更への対応が遅れたこともい響いて前年のようなパフォーマンスを発揮できなかった。そんななか新たに加入したベッテルがアゼルバイジャンGPで2位に入賞。61年ぶりにF1に復帰したアストンマーティンにとって、初の表彰台獲得となった。ただ表彰台はこの1回のみで、コンストラクターズ選手権では7位と順位を落とした。
2022年はプレシーズンテストからパフォーマンスが振るわず、序盤からアップデートを繰り返した。スペインGPで行ったアップデートではサイドポッドのデザインを一新したがこれがレッドブルのマシンによく似たものだったため「グリーンブル」と揶揄されたほどだった。シーズン前半は選手権を9位で折り返したが、後半戦に入ると35ポイントを獲得してアルファタウリとハースを追い抜き、選手権7位でシーズンを終えた。またこの年限りでベッテルがF1を引退。後任には、アルピーヌからフェルナンド・アロンソを迎えた。
ベッテルの後任としてアロンソを迎えた2023年シーズン、アストンマーティンは大幅なパフォーマンス改善に成功した。アロンソは開幕から3戦連続で表彰台を獲得し、レッドブルやメルセデス、フェラーリに匹敵する速さを発揮。前半戦だけで6回の表彰台登壇を実現した。後半戦はやや失速したが、それでもアロンソはサンパウロGPの最終周にペレスから表彰台を奪う走りを見せるなど最後まで力強い走りを披露した。ストロールは怪我の影響でプレシーズンテストを欠席し、アロンソのとの差も開くなどパフォーマンス不足も否めない状況ではあったものの、ドライバーズ選手権では10位に入りアストンマーティンのコンストラクターズ選手権5位に獲得に貢献した。
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